【自分】の【文体】を振り返ってみる(第3回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ『【自分】の【文体】が辿った【経緯】』を振り返ってみております。
『【小説】の【文体】としては【特殊】な【構成】を有している』という【自覚】はもちろんありますが、その【文体】にご興味をいただいたこともまた【事実】。
ならば【文体】の【背景】にあるものを掘り起こしてみることにも、相応の【意義】はあろう――という、これは考えですね。
で、執筆を始めた時点で抱えていた【悩み】、そのうち【文体】に関わるものはというと。
・【語り】(俗に言われる【地の文】)の語尾がパターン化しやすく、特に『~だ(だった)』、『~である(であった)』が【頻出】する。このため【文体】として【単調】に映りがち
・“日本語として【一般的】とされる【文章構成】”では、(【映像】を含む)【擬似体験】的な【脳内イメージ】が構築しにくい
・“【音】としての【文章】”の【完成度】を【追求】し始めると、さらに“【日本語】として【一般的】とされる【文章構成】”の【制約】が厳しく感じられる
……などなど。
前回お話ししました通り、これを受けて私が採った方策は、『【自分】で【ダサい】と思った【表現】は【封印】する』というものです。要は『~だ』と『~である』を【自作】から【排除】するわけですね。他にも『~をする』とか。
実はこれ、一文単位で【工夫】を強いられるわけで。つまり頭は常時フル回転ということに。とんでもない【荒行】になった――と始めてから思い知るという【猪突猛進】と【七転八倒】。←をい
ただ、腹を括ったところは確かにあって。これはほぼ開き直りですが、それでも“足掻く【姿勢】”の【意義】を知る上では実りがあったようです。
で、今回は【猪突猛進】からの【七転八倒】で、どういう【工夫】を思い付いたか――という辺りへ話を進めて参りましょう。
◇
で、そんな中で気付いたことが。
『語尾が【ダサく】映るなら、そもそも語尾を書かなければいいのでは』――と。
全廃とまではいかずとも、語尾そのものを極力回避すれば“【ダサい】語尾”も回避しやすい道理です。
また、ただでさえ自ら語尾の【語彙】を削っているわけですから、その上で“【一般的】とされる【文章構成】”に収まっていては“【文章】が【単調】に陥る【危険】”は増大する一方――という事情もあります。
ならば、と私は思い至りました。
語尾を極力廃して、それで【文章構成】が【一般的】でなくなるなら。むしろ開き直ってそれを逆用してしまえばいいのでは――と。
つまりは【文章構成】そのものに【ヴァリエーション】を求め、これをもって【単調さ】の【回避手段】とすることにしたわけです。
言い換えの【同義語】や【類義語】、のみならず【言い回し】にしても【文章構成】にしても、とにかく【固定観念】を取り払って【ヴァリエーション】を求めてみたならば。
それはもう【自由度】が格段に向上するわけですから、“【単調】さという【悩み】”からは【解放】されやすくなる道理です。
ただし【楽】とは申しません。【固定観念】から離れるということは、その【背景】に込められている【定石】と申しますか、『これさえやっておけば、ある程度はサマになる』という【攻略法】から離れることを【意味】します。つまり【攻略法丸暗記】のような『【他人】の敷いたレールに乗る【方針】』には別れを告げることになるわけですね。
が。
【修羅の道】を自ら選んだからには、今さら尻尾を巻く理由もありません。
『~だ』『~である』といった語尾に代表される『よくあるやり方』を見限った以上、語尾以外についても見限ればいいだけの話です。自ら【模索】の【労力】を払う分だけ【茨の道】は確定ですが、『【自作】が【ダサく】映って鬱屈する』より遥かにマシと申すもの。少なくともこれが私の【価値観】です。
【攻略法】を見限るなら、【自力】で【原理原則】を【検証】し直し、“【自分】に馴染むやり方”を一から構築すればいい話。もちろん【日本語表現】であるからには『【日本語】として【理解】されること』自体は手放しません。が、“【日本語】として【理解】される【過程】”まで掘り下げた上でなら、“【理解】を得やすい【構造】”を【再構築】できない道理はありません。そもそも【表現】は変化してきたわけですから、つまりは『【絶対不変】などというものは【存在】しない』というわけです。
ただし。
こと【文章構成】において【攻略法】を見限るからには、ここで“『【理解】しやすい』とされる【定型】”をも見限ることになります。
ここで見限るわけにいかないのは“【観客】にとって【感覚的】に『【理解】しやすい』こと”。と申しますのも、私が【創作】に当たって掲げる【目的】に関わるからです。
・第一に、【自分】が誰より楽しんで【創作】すること
・第二に、その上で“【趣味嗜好】の近しい人”を巻き込んで、ともに楽しむこと
つまり、少なくとも“【趣味嗜好】の近しい人”にとって“【感覚的】に『【理解】しやすい』こと”は、私の【創作】にとって重い【命題】なわけです。これは“【趣味嗜好】の近しい【観客】に高く【評価】されてきた【作品】群”というものに親しんで、私が強く【思い入れ】を抱いていることに起因します。
つまり、私は『“【理解】しやすい【表現】”というものを、【自分】なりに【開拓】しなければならない』ということになります。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
腹を括って開き直ったなら、【定石】から離れてみるのも【選択肢】に入るわけです。
ただ、そのためには【自分】なりに【原理原則】を【認識】する【必要】があるのもまた【事実】。私は【創作】の【目的】の中に『“【趣味嗜好】の近しい人”を巻き込んで、ともに楽しむこと』を掲げるわけですから、“【感覚的】に『【理解】しやすい』こと”、少なくとも“【趣味嗜好】の近しい人”にはそうあることを目指すことになります。
この辺りをどう【模索】したか、次回はそこをお話ししてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
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