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よっ、粋だねぇ!

 先日、ふと見たテレビのバラエティー番組で、今の世の中で粋だと思う事を芸人さんたちに、問うていました。
当然、芸人さんたちは、面白い回答をしようとするのですが、間とか、表情が面白いくらいで、さして面白くもなく、粋ってそういうことだった?と疑問が残りました。
だって一位は「昼と夜があること」ですよ。
「愛」って人もいました。
ちょっと違和感満載で、調べてみたところ、大分違っていました。

粋だねぇ!って思う事最近とんとありません。
今の世の中で、粋なはからいをしたところで、だれにも気づかれない可能性は大です。  気づく人あってこその粋なはからいなんです。
人と人の距離感とか関係性とかが、ホント難しくなっている昨今です。

何かとマウンティング合戦になりがちな、今日この頃です。
屈折したマウンティングもあることを最近知りました。
彼女との付き合いは長くて今までなんの違和感も感じていませんでした。
私は,糖質制限だとか、自分の今の関心事については、なんの警戒心もなく、ゆるーく喋ってしまいます。
でも黙ってもくもくとやっている人もいるのです。
どうして隠すかは不明です。
彼女は、博識で私がほしい言葉をくれるひとですが、同時に恐ろしく保守的な既成概念をもっています。  常に合理的であろうとするストイックさをうちに隠しています。  
そういう人はひた隠しに隠して、ここぞと言うときに攻めてきます。
人の不備を見つけて攻めこんできます。
うまく説明できないのですが、かたく結んだ買い物ぶくろが、聞かないでほしいと、物語っていました。
私にとってはそれを極めるかどうかは論点ではなくて、世の中の流れに押し流されて意図せずに添加物だらけのものを口にしたくないだけです。
それを、毒とわかっていても、食べるのか食べないのかの決定権を自分で持ちたいだけです。
でも彼女はいつか私のストイックさに冷や水を浴びせたかったのでしょう。
今は、スピリチュアルな観点からも、ライオンズゲートが開いてるとか、次元上昇の関係で身体が重かったり、眠かったりします。
日本的な観点でも土用ですから、無理は禁物です。
その日はぼーっとしていましたら、ことごとく論破され続けて、このところ高かった波動は、いとも簡単に地に落ちました。
もしかしたら、今まで彼女は我慢していたのかも知れないです。
この地球がアセンションしようとしている時にミクロな話であり、なんなら彼女は自分の攻撃的な変化に気づいていないかも知れないです。
いつも誘うのは私で、たまにはそっちから誘ってよと言った時「それはハードルが高い」って言われてどういう事なんだろうと思った記憶があります。

なんか最近思うのですが、若い時ほど孤独は怖いものではなくなりました。
私は若い時から孤独への耐性が高かったと思いますが、それでも若い頃は世の中からの孤立は居心地が悪くて、見せかけでも人と繋がっていたいと、思ったものです。
しかしです。 今はそこに心血を注ぐのは面倒です。
人の波動なんてものは、常に変化していますから、あわなくなることだってあるのです。   それは執着してもしょうがないことです。
きっと私から連絡しなければ、終わるのでしょう。
私は今、小さいながらも自由人で、競う気持ちも、損得勘定もありません。
ですから、一方的に攻撃を受けたら、鎧を着ないと、傷だらけになってしまいます。
この暑いのに、鎧は着たくないので、一人も上等かなと思います。

さて粋のことですが、粋の概念は文献によって少しずつ異なるのですが、もとはと言えば江戸っ子の誉め言葉で、男性に対して使われることが常だったようです。  気性、態度、身なりがあか抜けていて自然な色気が感じられることだそうです。
 日本の哲学者で、故 九鬼周造先生は「いき」の概念に「諦め」も加えています。  日本独特の感性を感じますが、要するに個として大人であることは、大前提な気がします。
ある種諦めの意を持ち、人情の機微に通じ、さばけている身なり振る舞いが洗練された人と解釈すると、なかなか魅力的です。
思いあたる人っていますか。 私は悲しいかないません。
ちなみに反意語は「無粋」とか「野暮」ですから・・・。
粋な人になりたいものです。  
その粋を披露するようなシチュエーションはないかも知れないですが、心意気は、粋でいたいなと思います。
粋な人はマウンティングをどうかわすんだろう。

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