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長い歴史刻む総合芸術守り育てて ①

【鎌倉朝日 2020年3月1日号 に掲載されたインタビュー記事より】

ユネスコ無形文化遺産

-「観世流シテ方」とは-

 能という演劇は完全な分業制で役割が分かれています。私はシテ(主役)が持ち役です。シテ方には観世・宝生・金春・金剛・喜多と四流があります。
 能楽師の職制は、シテ方、ワキ方、囃子方(能管・小鼓・大鼓・太鼓)、狂言方に分かれています。ひとりの人間が役を兼業する事は決してありません。

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-お能とはどんな芸能か-

 能は「能楽」というのが正式な呼称で、能という芝居と狂言という芝居をセットにしたもので一つのジャンルになります。
室町時代から続く世界で最も古い現存する演劇で、2008年にユネスコの無形文化遺産に選ばれました。

三間四方が生み出す総合芸術

-能楽誕生のいきさつは-

 室町時代、京都・奈良に小さな劇団がたくさんあり、その劇団を「座る(すわる)」という漢字を書いて「座(ざ)」と呼んでいました。今もいろいろな劇団名に「座」とついているのはその頃から使ってきた呼び方のなごりです。
 能舞台は三間四方、5,4メートル四方と決まっています。昔は外での芸能だったため小さな舞台がどこにあるかの目印として松の木の下に舞台を作りました。当時もご神木として多く使われたのが松で、その所以から今の能舞台の背景に松が描かれているともいわれています。
 室町時代、その演劇が評判となり、奈良興福寺が寄付を集めるために京都でイベントを行った時、都の人々の評判となり、噂を聞きつけた将軍足利義満がそれを観に行きました。
 足利義満は芝居が大変お気に召し、その芝居に出演していた少年 鬼夜叉をいたく気に入り小姓としました。  
 将軍をバックにつけた興福寺の座は一気に巨大化していきますが、座のことを「能くするもの(よくするもの)」という表現が使われ、良く出来ていて面白いもの、良いものに「能」という漢字が充てられたことから「能楽」「能」と呼ばれるようになったという説もあります。

-世阿弥から江戸時代-

 一方、少年鬼夜叉は成人し、世阿弥元清と名前がかわり、能の大成者と言われるようになり、当時禅宗の「侘び、寂び」に代表される静かな美しさが流行ったことから、能はいっきに「動かない演出」が主流となりました。能は動きが少ないからつまらないと言われるのは、その頃の作品が名曲として一番多く残っているからです。
 しかし、武士もその後、応仁の乱などでスポンサー能力が落ち、一般大衆向けの筋書きの曲がどんどん増えてきます。
 能は新しい曲を増やしながら、江戸時代までそれほど大きな変化はせずに生き残ることができました。同じものを繰り返しているとお客さんがついてこなくなるのでどんどん変化せざるを得ないのが演劇の宿命ですが、能は、江戸時代に三代将軍徳川家光が参勤交代をきっかけとして、変化することから免れたのです。
 参勤交代で日本中の武士が江戸に上ってきた際に、それぞれのお国言葉(方言)のためにお互いに言葉が通じなかった。そのため、武士の共通語として能の言葉を学び、その言葉(詞章 能の台本)が共通語の教科書となったという説があります。
 演劇は換わらないと生き残れない筈が、逆に能は教科書になったため全く動かすことができなくなった。さらに、将軍の前で大名は能を舞ってみせなうてはいけなくなったため、物覚えが悪くても不器用な人でも主役を間違えずかっこよくできる芝居になっていった。一方、見る人=やっている人という図式となり、シンプルすぎてわかりづらい演劇になっていった。そのため、一般の人にとって能が難しいと言われる所以かもしれません。
 また、禄を貰って武士達の指南役と仕えることになったことが「能楽師」という呼び方になりました。能は一般大衆から切り離され、能に代わる町の人たちの新しい娯楽として歌舞伎が発展していきます。

 -能の一番大きな特色-

 一番の特色は能面という仮面を使う演劇であることです。これに代わるものが歌舞伎などの化粧です。別の人格になるための道具として仮面があり化粧と同じ意味を持つわけです。

②に続く 
 
 

 

 


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