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能を知ろう Vol.7

 今回は「能面」と関連します「能装束」についてお話したいと思います。能では「衣裳」と言わずに「装束」と呼びます。特別な儀式や宮中で召される衣裳を「装束」と呼ぶと辞書などでは書かれていますが、能装束は江戸時代に武士の式楽となり、将軍・大名が身につけて舞う事から、「装束」と呼ばれるようになったと言われています。

 現代において舞台衣裳は、「遠目で見てそれらしいものを、毎回役に応じて作り変える」という傾向にあるため、「個々のコストを極力抑えた上で良いもの」が求められると聞きます。
しかし、能装束は将軍・大名が存在した時代を経て、「上流階級がお召しになるもの」という考えが根底に生まれ、「手触り」「着心地」「意匠」を含めていくらコストを掛けることを惜しまず、その時々における最高の物を追い求められるようになりました。京都の西陣が「世界最高峰の織物技術の街」と言われるのは「能装束」「小袖」等を長年手がけた事によると言われています。

 また、当時の将軍・大名は自らの冨と誇りにかけて最高の品を望み、金に糸目をつけず、時には無理難題すら要求しました。例えばある大名は、我々は「時代がついたと」称える現象である銀箔の酸化による黒ずみを嫌い、「黒くならない銀箔」を要求したと記録に残っています。それによりますと、蝦夷國日高地方にて黒くならない銀が採れると知り、人を送って酸化しない銀箔を見つけ、それを装束に使って喜ばれたそうです。現代鑑定の結果、その銀はプラチナだそうで、当時一枚の装束にどれだけの手間とコストを掛けたかが推察できるかと思います。

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 幕末頃には各藩が蓄財をすると、幕府から謀反の恐れ有りと取り潰されるようになりました。そこで参勤交代で江戸に上った大名達は、毎回毎回新品の能装束や茶道具のような道具類を並べ、「うちの殿はこんなにも道楽をするので金が無いのです。」と言う態度を示す必要があったそうです。そのために大名達はこぞって豪華な装束や蒔絵や螺鈿細工の箱などを次々と注文し、「予算無制限」 に近い好景気な状態が続いた結果、様々な技術が発達したとも言われています。

 また、能装束の柄は、草花や虫・動物、幾何学模様など多岐に及びますが、草花をそのまま衣服の柄としたのは日本人が最初ではないかと言われています。欧州でも中国でも紋様化したものはありますが、そのままの姿の物を意匠したものはあまり見当たりません。しかし幾何学模様などは、数年前に仕事で赴いたイランの絨毯博物館にて、紀元前の作品の模様を拝見し、「こういった模様がシルクロ-ドを渡り、日本の七宝や蜀江模様になったのではないか。」と感じ入りました。

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 装束の価値は新品が最高という訳では無く、使い続け、その装束が色あせ、織り切れる頃が最も美しいのだと私は思います。私達は大切に扱いながら、「最高の瞬間」が訪れるのを今か今かと楽しみに使い続けています。

公益財団法人鎌倉能舞台  http://www.nohbutai.com/
 

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