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能を知ろう Vol.4

 徳川家は「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」(徳川家康)の和歌に象徴されるように温厚で保守的でした。そのため、秀吉ほど能が大好きと言うわけでは無かったようですが、豊臣の遺産である能楽を切り捨てるような事はせず、「観て楽しむ」ものとして庇護し続けていました。そんな中、三代将軍家光が「参勤交代」を始めた事で能楽は大きな転換期を迎えます。

 それまで諸国に散らばっていた大名を江戸城に呼び集めた徳川家にとって非常に大きな問題が発生しました。それは「言葉が通じない」と言う事です。日本人は「農耕民族」として土着の文化を形成していて、遠く離れた人との接点が殆ど無かったために一般会話では方言が使われていました。私も公演で日本中の学校を回っておりますが、東北や九州で地元の方と交流した際に全く意味がわからない事も珍しくありません。

 家光もこのままでは政治も会議もままならないため、一説によりますと、武士は同じ言葉を使おうと教本を定めることにしたそうです。それは足利・織田・豊臣・徳川と武士が見続けていた能の台詞、「謡曲」を全員が学ぶ事により、その言い回しを一般会話に流用すると言うものでした。

 例えば高砂という曲には、「これは九州肥後国、阿蘇の宮の神主友成とは我がことなり。」というワキの「名乗り」という自らのことを示す台詞があります。この台詞をもとに、地名と名前を自分のものに置き換える事によって、初対面の武士同士でも会話が成り立つようになったそうです。

 廊下で「如何に申し候。」「何事にて候ぞ。」のような、硬い言い方でのやりとりが行われていたのです。幕末にペリーが浦賀に来航した際の船員の日記に「幕府の高官達は魚のような顔(無表情な)をして抑揚のない調子で言葉を話す。」と書かれています。私達が舞台で謡っている姿と重なりますね。

19.10.07+能知会+(233)

 これを契機に、能役者は幕府から禄高を貰い武士達に謡曲を教える指南役として召し抱えられ、「能楽師」と呼ばれるようになったと考えられています。そしてシテ方の四座は各藩毎に振り分けられました。これが今でも「縄張り」として強く残っています。

例えば、石川県金沢は「加賀宝生」と言われる宝生流の地元であり、私達観世流が公演をする頻度は低くなっています。三百年くらい前の縄張りが今でも根強く残っているのも能らしいことです。
 
公益財団法人鎌倉能舞台  http://www.nohbutai.com/

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