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能を知ろう Vol.2

 第二回目の連載では能楽の成り立ちについて掘り下げていきたいと思います。
 興福寺で興行を行っていた四つの座、結崎(ゆうさき)・坂戸(さかど)・外山(とび)・円満井(えんまい)が現代の能楽シテ方(主役を務める)四流【それぞれ、観世流、金剛流、宝生流、金春流】の祖となっています。

 その一つ結崎座が私が所属している観世流のご先祖であり、その座長・観阿弥清次が教科書などに「能を大成した人」と書かれています。当時の芝居は現代の印象とは異なり、盆踊りのような群舞的なものが多かったと言われています。しかしそうした時代に結崎座では、役者ひとりひとりに台詞と動きを振り分け、物語を展開するという手法をとって人気を集めていました。

 ある時、興福寺が寄付集めのための「勧進」の興行を、当時の都・京都で行うことに決め、その演者として結崎座を派遣したところ、都の人々の評判となったそうです。その噂を聞きつけた時の将軍・足利義満が、ほんの気まぐれで観劇に赴くという当時では考えられないようなことが起こります。そして、将軍義満自らが結崎座のことを大変気に入ったことで、能の運命が大きく変わることとなったのでした。

 芝居も斬新で面白かったとは思いますが、義満は出演していた座長【観阿弥】の息子【鬼夜叉】という十六歳の少年をいたく気に入り、結崎座の支援者となりました。他でもない将軍という最大の支援者を得た興福寺の四つの座は、近隣の小さな座を一気に飲み込み巨大な座を形成していきました。

 余談ですが、今日観世流・宝生流のことを「上掛り(かみがかり)」、金剛流・金春流のことを「下掛り(しもがかり)」という言い方で分けているのは、結崎座・外山座が将軍について京都へ上り、坂戸座・円満井座は奈良に残ったからだといわれています。また、その当時にそれらの座のことを「能(よ)くするもの」と評した文章が見つかっていて、それこそが「能楽」の名前の由来になっているのではないかという説があります。

 将軍という大支援者を得ることに成功したことを境に、能は観客層が一般庶民から支配者階級である「武士」に変わり、それとともに物語の内容が変化していくこととなります。
一般大衆が対象であった観阿弥の頃は、庶民の日々の暮らしの中で起きた三面記事や社会面に載るような事件・事柄を脚色していました。親の仇を子供が討つ、孝行者の娘が我が身を人商人に売ってその代金で親の供養を頼むなど、庶民の噂話を題材を使っていました。

 ところが武士階級にはそんな話は耳に入りませんし、興味も無い。そこで題材に選ばれたのは、武士達が教養として読んでいた、源氏物語・平家物語・伊勢物語・万葉集といった文学作品でした。古典作品を脚色し、支援者である武士家の信奉する宗派や神社仏閣の御利益を喧伝し、知名度を高める宣材として能の曲を作っていきました。
つまり能とは基本的に、宗教を宣伝するために作られているということとなります。

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 どこかのお殿様の菩提寺から、最近参詣人が少ないから宣伝して欲しいと依頼をされると、参詣人が増えるような曲を能役者に作らせるという流れとなります。しかし、庭や花を宣伝する観光案内のような曲を作っても印象には残りませんので、仏様や神様、御経の功力といったものによる「奇跡」を主題に据えた物語を作る、といった手法が取られます。

 例えば、生き別れとなった母子、その母親が子供を捜すため「物狂(ものぐるい)」と言う大道芸人に身をやつして旅に出る。その際、宣伝したい神社やお寺に立ち寄り、「我が子に合わせて下さい」と念じて手を合わせると、神職の方や夢中の神の告げを得て目的を達せられる、といった筋書きのものは多くあります。そして、ただ告げを授けるだけではなく、伊勢物語や万葉集といった作品の和歌を引くことにより主だった客層の印象に残るように作られています。

 こういった物語は、捜した母親は主題で無く、告げを授けた神社仏閣の神力や功徳の力に注目を集め、参詣を促すような作品となっております。他にも、鬼退治の場面が出てくる曲でも、武将は刀を抜く前に「南無八幡大菩薩」や「南無観世音菩薩」と念じて刀を抜くと鬼を退治できる、という流れとなっています。これは、武将の腕っ節ではなく神仏の御加護によって得られた勝利です、勝利祈願の際はぜひお参りを、という宣伝になるのです。

 もし認知度を上げたい、宣伝したいという神社やお寺様がいらっしゃるならば、ぜひぜひ新作をご依頼下さいませ! 

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