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能を知ろう Vol.5

 江戸時代において、能は武士と共に送ってきました。しかし一時は武士専用となった能楽も、江戸後期を迎えますと再び一般庶民も目にする機会が増え、能を学ぶ事が一段上の教養として扱われるようになったそうです。
大店の主や長屋の大家などが婚礼の場で小謡を一節謡えば賞賛され、宴席で余興に小謡を謡って次々に指名して違う小謡を謡い続け、続けられずに謡えない人は罰として一杯飲まねばならない、などという事もあったようです。

 現代のカラオケのように謡曲が使われていた時代もありましたが、その後は小唄に取って代わられ、今ではいずれもほんの一握りの方々にのみ知られる慣習となってしまいました。しかし今でも、長野などでは宴席の場にて小謡を次々に謡う、「北信流」というものが行われています。

 さて、江戸の町では酔っ払いが深夜に“都々逸”などを唱いながら千鳥足で歩いていると、不寝番から「五月蠅い、黙れっ。」と怒鳴られたそうですが、謡曲を謡いながらですと、「お黙んなさい。」と優しく言われたなどという逸話も残っています。

 やがて大政奉還を迎え、徳川の時代が終わり武士がこの世から消えました。一番の支援者を失った能はここで滅びるものかと思われました。しかし、ヨーロッパへ留学をした日本新政府の中核を担っていた人たちが、留学先の国々において自国の特徴的・伝統的な文化・芸術をもって来賓をもてなすという文化を日本へ持ち帰りました。

 そして、これからは日本も海外の来賓者を迎えるにあたり、日本の伝統的な芸能を残さなくてはならないと考え、「国劇」が定められました。「国劇」には「能楽・歌舞伎・文楽」を定め、引き続き支援をすることにしたのです。また、当時の財閥家にも能楽の愛好者が多かったため、大名に変わる支援者として、陰になり日向になり能楽を支えて下さいました。余談ですが、財閥家の中には「家が傾くほど経費が掛かるから、能には手を出すな」といった家訓のあった家もあったそうです。

船弁慶_前16.03.10 能知会_020

 一方、国劇となった事で歌舞伎にも変化がありました。能の曲と歌舞伎の曲では似たような曲は殆どありませんでしたが、海外からの来賓者に、あまり庶民的な世話物ばかりでは具合が悪いと当時の方々が思われたのか、能の演目を次々に歌舞伎化していきました。今では人気曲となっています、「紅葉狩」や「船弁慶」、「俊寛」などがそれにあたります。また、逆に歌舞伎の演出を能に取り入れたようなものも、江戸期以降に数多く見受けられるということもあります。

江戸期では交わることが許されなかった芸能同士が、段々と混じり始めた形跡が見られることは面白いことだと思います。

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