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能を知ろう Vol.3

 足利氏の庇護により大きく成長した能ですが、「目新しさを追い求める」という芸能の宿命からは逃れられず、作品は変化を続けていきました。

 武士が支援者になった頃、日本は禅宗の「侘・寂」といった、静かなものが美しいという美意識がもてはやされた時代でしたので、演出的に「静的な美しさ」を求めるような作品が増えていきます。この頃に人気を博した能の作者が、義満の寵愛を受けた少年“鬼夜叉”の成長した姿、“世阿弥元清”です。その代表作である「井筒」「野宮」は現代でも人気曲として頻繁に上演されております。しかし、初めてお能をご覧になる方には、動きが少なく緩慢に見えるため、「お仕置き」と感じられてしまうかもしれません。

 この「侘・寂」の流行も、応仁の乱が起こり、武士を始めとした支配層の財政的疲弊により収束していきます。そして、支援者による能への投資が滞ってしまったため、再び一般大衆を観客として呼び戻す方向に舵を切ることとなります。観阿弥の時代以上に、物語性を強め、さらには大掛かりな道具立てや多人数を登場させるといった、派手な演出の曲が増えていきます。この頃に作られた、「道成寺」「紅葉狩」「安宅(勧進帳の原曲)」などは、後世には歌舞伎にも取り入れられ、双方で人気曲となっています。

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 その後足利氏が衰退し、台頭してきた尾張の武将、織田信長がそのまま天下を取ったら能はそこで終わっていたでしょう。信長は「傾奇者(かぶきもの)」と言われたように異風を好み、斬新なものを求めたと言われています。芸能においては足利氏の遺物、能楽などには見向きもせず、後発の「幸若舞」を好んだそうです。本能寺の変で迎えた今際の際に、「人間五十年~」の舞を舞いながら炎の中に消える場面は大変に有名だと存じます。

 本能寺の変にて信長は志半ばで明智光秀に討たれ、天下を取ったのは豊臣秀吉でした。これが能にとっては大変幸運なことでした。秀吉は信長の存命中はおくびにも出しませんでしたが、大の能好きでした。天下を取ってからは誰に憚ることもなく数多の能の会を催し、自らも能を舞い、自分の武勇伝を能に仕立ててさせたと記録が残っております。能面や道具類も作らせていたため、秀吉からの拝領品も数多く残っています。

 そして、秀吉亡き後天下を取ったのが徳川家康でした。家康は秀吉ほどは能好きではありませんでしたが、大変に保守的な人でしたので、豊臣家の遺産である能を捨てることなく見続けてくれました。そして三代将軍家光の時代に能にとって大変な転換期が訪れるのです。~続く

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