歎異抄は「旅行保険でGo to 浄土」

11月26日猫町オンラインフィロソフィア「歎異抄」回。

オラ門徒じゃないんで、歎異抄はじめ仏教書はあんま「教義」とかを探るような読み方に意義を感じないんですね。読書会でもそういう話ばかりする人にはあんま関心ない。21世紀の日本に生きる、今の我々にどう役に立つかってことにしか興味ない。無論そのためには教義を読み取ること「も」必要だろうが、そこにとどまっていては教科書読むのと同様ただの「勉強」であってあんま有意義な、教養的な読書体験とは言えないのではないかと。
歎異抄の「教義」は「念仏が全て。念仏さえ唱えていれば仏様になれますよ」ということに尽きます。つまらん俗世間的な価値観による善悪なんて、成仏の可否には関係ない。善人でも悪人でも、念仏さえ唱えていれば成仏できますよと。キリスト教プロテスタントの予定説みたいなもんですね。ある人が天国行くか地獄行くかは既に決まっているから今更善行積んでも悪行に走ってもなんの影響もないよってやつです。マックス・ウェーバーも書いてますね。


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歎異抄(浄土真宗)の場合、全員救われるわけですからプロテスタントより寛大な出血大サービスですねw。まさにGo to 浄土キャンペーン。
他の仏教宗派と違い歎異抄の場合、修行とか善行とか積まなくても念仏唱えるだけで誰でも救われる点が特徴的です。つまり、武士とか遊女とか商人とか、その性質上「悪」から逃れられなかった当時の階級の人々でも救われたと言うことです。そりゃ人気にもなりますわね。
ただし、このことをもって歎異抄(浄土真宗)を「お手軽な宗派だったから人気が出た」と現代的価値観に基く思い込みで即断するのは間違いです。
後の戦国時代における一向宗への弾圧が代表的ですが、信教の自由が保証されている現代日本と違い、当時は念仏を唱えること自体が命知らずな反社会的悪行とみなされる場合が多々有りました。実際親鸞自身も僧の地位を剥奪され島流しにまであっています。そういう時代において、浄土真宗に帰依するという行為は、コロナ禍の現在で言えば機内において「オレはマスクなんてしないぞ!」とか大声で宣言するようなものだったのです。つまりそれは人生を左右する極めて重大な「決断」だったわけですね。決して「念仏唱えるだけで極楽浄土に行けるんだ!」などと言うお気楽なものではなかったわけです。
ところで、歎異抄における「悪人」には2つの異なる意味が混在していることに注意が必要です。一つは世俗的な意味での「悪人」。これは「あいつはマスクをしないから悪人だ」とかって用法の意味ですね。もう一つは、浄土真宗的な意味での「悪人」。これは前述の世俗的な意味での悪人とは全く関連性はありません。煩悩を捨てられない人間という意味の悪人です。つまりぶっちゃけ、仏様以外全員悪人ですw。マスクしているやつでも悪人。例え世俗的意味での善行をしている「善人」であっても悪人なんです。なぜなら、例えば善行をしている人でもその裏(動機等)に自己顕示欲や名誉欲、ましてや「善行すれば救われる」て思いなんかがあったりするとそれはもう「煩悩」から逃れられていないということになり「悪人」ということになるんです。厳しいですねw。

さて、ここまでが歎異抄読んでwikiればわかる「教義」。では、こうしてわかったことから21世紀日本に生きる我々は一体どんな教訓を得られるのか。あるいは得られないのか。
オラは歎異抄というのは「死ぬ気になればなんだってできるよ」と我々を励ます書、思想だと思っています。
オラは普段から誰に嫌われようが悪く言われようが「知らんがな」と好きに生きているんで毎日365日一分一秒が楽しくて仕方がありませんが、でもどうやらオラ以外の多くの日本人はそうではないらしい。世間の視線だの「ふつう」の価値観だのが気になって仕方がないようです。オラは地下鉄車内でもマスクなんかしませんが、オラ以外はほぼ100%マスクゾンビと化し、「お前はなぜマスクしないんじゃ!非国民め!」と今にも噛み付いてきそうに睨みつけてくる。「ふつう」の人はそんなマスクゾンビに噛まれて感染し、同じょうにマスクゾンビになっちゃうんでしょうね。オラならんけどw。
オラ50歳無職引きこもり中年童貞のオタクと自称しているが、2020年の現代においてもシデムシのように足ざまに言われることがあります。ましてや20代だった1990年代ごろまでなんて非国民どころか「寄生虫の宮崎勤」とかマスコミでも堂々とヘイト報道がなされる時代で、犯罪者予備軍、いや犯罪者扱いでした。オラ未だに運転免許て持っていないし腕時計もしませんが、学生時代なんか「免許取らない、腕時計しないやつは非人間」て扱いでした。
でもどうでもよいコバエごときにどう思われようが、オラは昔からなんの痛痒も感じなかったw。しかし世の中の「ふつう」の日本人はそうではないみたい。実際、そうしたヘイト弾圧に負けてオタクやめたり、就職したり、結婚に追い込まれたサバイバーはいっぱいいたはずです。
そんな中でオラがなんの痛痒も感じず好き勝手に生きて来られたのは、「だって死ぬわけじゃないじゃん」て思いがあったからです。読書さえできればあとは別に死ぬわけじゃないんだからどうでもいいとw。
ツイッターに「童貞は社会のゴミ」などとヘイト書き込みするしか脳のないコバエごときにどう思われようが別に死ぬわけじゃありません(習近平とかに嫌われたら流石に殺されるかもしれないからちょっとは気にするかなw)。だってそもそも人間様は「ゴキブリに嫌われているかどうか」なんて気にしないでしょうw。目の前に飛んできて邪魔になれば、ただスリッパで叩き潰すだけの話です。親に「いい加減結婚しなさい、就職しなさい」なんてうるさく言われようが別に死ぬわけではありません(ありがたいことにうちの両親はそういうこと昔から一切言いません)。
でも世の中の「ふつう」の日本人はどうもそういうふうには考えられないらしい。

「無職」と自称しながらフリーライターもやってるオラですが、以前仕事でこんなことがありました。
名古屋在住のオラですが、月に一回東京で、誰でもお顔ぐらいは見たことあるようなお偉い先生がたとの会合に呼ばれるお仕事があります。お金の支払いも結構な、オラにとっても勉強にもなる割の良いお仕事です。ところがある月の日程が、都合の悪い日に設定されてしまったんです。
猫町倶楽部では毎年6月ぐらいに著者をゲストにお呼びして、名古屋駅前からバスで温泉旅館等にでかけ、そこで酒飲みながら男女浴衣で乱れてwゲストの本を課題本にして読書会をするという一泊旅行イベントがあります。オラそれを毎年楽しみにしている。ところがお仕事の上京の日程が、読書会旅行と被ってしまったんですね。
当然オラ編集さんに頼みました。

オラ「ごめんなさい。毎年楽しみにしている読書会旅行と被っているんで、会合の日程ずらしてください」
編集さん「そんなこと偉い先生がたに言えませんよ!ただのプロ2ちゃんねらーの中宮さんと違って、他のみなさんは政府の関係者とか大学者様とかなんですから!」
オラ「ですよねー。では申し訳有りませんが、趣味を優先したいのでお仕事は今月で終わりということにしてください」
編集さん「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

結局編集さんが話をつけてくださった結果、お偉い先生方はみなさん「よかよか」と快く日程変更に応じてくださいましたw。

この話の要点は何かと言うと、仕事を失ってもかまわないという覚悟で挑めば結局は自分の自由を失わなくても済む、自分の好みの結果が得られるということです。仕事を失っても別に死ぬわけじゃありません。
オラは普段から仕事でも猫町でもなんでも、こういう「失っても構わない」という態度で挑んで好きに振る舞い好きに物を言っています。その結果仕事や友人を実際に失ったことなどただの一度もありません(そもそも友人や仕事相手になる価値がないやつが寄り付いてこなくて楽になるという、虫除け効果もありますw)。むしろ自分の我を通せたり、ムリな注文とか来なくなったりと実に生きやすくなっている。
「ふつう」の日本人はこういう場合、仕事を失いたくないからと「いいですよ、読書会旅行あきらめますよ」という選択をしてしまうのではないでしょうか。そういう妥協を積み重ねていく結果、最終的には逃げ道の無いところに追い込まれ、自分が生きづらくなってしまう。
実際死ななくても、「死んでもいいよ、死ぬことも選択肢に置いておくよ」と背水の陣で挑めば結局は死なないで済む、良い結果を得られるよてことです。孫子の兵法ですね。

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「死ぬ気でやればうまく行く」というのはそういうことです。別に「死んだ気になってボロボロになるまで努力しろ、我慢しろ」て意味ではありません。実際オラは孫子の兵法のままに、そもそも戦わずに、無駄な戦いを避けて最初から逃げるてこともよくやりますし。
そういう意味では、親鸞様なんてほんと、ぬるま湯な時代に生きるオラなんか足元にも及ばないほどパンクなお方ですよねw。何しろ実際殺されるかもしれないのに公権力や世間様にたてつき、結婚したりやりたい放題言いたい放題だったんですからw。ほんと尊敬します。

さて、歎異抄の「誰でも救われるよ」という教えは、「人間の死後の救い」としかみなされないことが多いですが、オラ違うと思っています。それは現世を豊かに生きるための「保証」「保険」なんです。人生という旅を楽しく生きるための旅行保険なんです。
浄土真宗において、救済は仏様のお仕事です。我々「悪人」は仏様に安心しておまかせ、丸投げしておれば、死んでも自動的に救われます。極楽浄土ツアーの「お客様」なんです。ツアコンは仏様w。お客様である我々悪人は現世で我慢して善行や修行なんかする必要は微塵もありません。我慢してブラック企業に勤め続けなくても良いし、DV夫に我慢して結婚生活を続ける必要もありません。退職しても離婚してもちゃーんと死後には救いが保証されています。
そういう死後の保険があることにより、現世の我々は「現世でなにをやらかしたって死後にはちゃーんと救われる」と確信安心でき、その結果「死ぬ気でやればうまく行く」と思えるようになるんだと思います。そうやって現世での実りある生を導き出す力を与える、エンパワーメントすることこそが、歎異抄の真髄なのではないかと思っています。あくまでも「よく生きる」ための教えなのです。

歎異抄(浄土真宗)の副次的な効果として、「世俗の価値観とは異なる基準を与えることで人々に余裕を与える」という効用もあると思います。
例えば意図的な殺人犯人でなくても、交通事故等で運悪く意図せず人を殺めることだってあるわけです。そういう時「ふつう」の日本人は罪悪感に苛まれるでしょう。罪悪感が無いサイコパスみたいな人でも、世間の悪口や冷たい視線に敗けて心が折れてしまうかもしれません。そうなると自分自身が落ち込むだけでなく、集中できず仕事がうまく行かなかったりパートナーに当たり散らしたりして周囲にも悪影響を与えてしまうことでしょう。
そんな時歎異抄が「人を殺めて世間から足ざまに言われているあなたでも死後はちゃーんと仏になれますよ」と言ってくれることで、自分の心に余裕ができることでしょう。自分に余裕があれば、周囲にも優しくなれます。仕事もうまくいくでしょうしパートナーに当たり散らすこともないでしょう。こうして歎異抄は「死後の救い」を約束することにより現世にも救いをもたらしてくれるのです。

そうなんです。歎異抄は旅行保険なんです。旅行の際一々、「ここで盗難にあうかも、警戒しなきゃ」「これ食べて病気になったらどうしよう」とか考えてたら、旅行自体楽しくなくなりますね。「こいつオレから泥棒しようとしてるのか?ぼったくろうとしてるのか?」という視線で見られて、現地の人や同行者を不快にさせるかも知れませんし旅に集中もできない。そんな時に旅行保険に入っておけば安心できて、旅を楽しむことに集中できますね。結果的に豊かな旅体験ができるし周囲も自分も幸せにできる。そういう役割のものなんです。


宗教の力はまさにここにあります。
ハラリ「サピエンス全史」にもあるように、人間が動物と大きく異なる点の一つは、通貨や宗教等の概念、システムを持てる点です。
通貨なんて現代ではただの紙です。いや、ただのコンピュータ上のデータでさえある。

宇宙人が人類を見たら、「あいつら紙幣とかいうただの紙なんて大事そうに崇めやがって、未開人の宗教て面白いね」なんて思うかもしれません。そういう本、昔流行りましたね。

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そんな実態の無いものを皆が宗教のように「信仰」することにより、数多の実態物では到底実現できない数々の利便性を我々にもたらしてくれている。

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宗教も一緒です。かつては「国や社会をまとめ、安定させる」といったようなマクロな利便性がメインだったでしょう。21世紀の現代においてはそうしたマクロ的な宗教の利便性はほぼ失われ、場合によってはデメリットの方が目立つことさえ有ります。しかしミクロな視点で見た場合、近年のマインドフルネスブームなんかもそうですが、利用の仕方によっては個人個人の幸福を増進する使い方は未だに残されているように思えます。孔子先生も論語で「温故知新」とおっしゃっていますが、古の人々の生き方考え方を「古い」と決めつけて単に「知識」として扱い現代への、あるいは自身への応用を考えてみないのは極めて非教養的な態度だと思います。

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各出版社から数多出ている歎異抄の中で、Kindle化されている中ではこの筑摩書房版が一番現代に生きる我々に実践的な教訓を与えてくれる、考えのきっかけや材料を提供してくれる書き方になっていると思う。

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追記。

ところで、パンクな親鸞さんが浄土真宗で仏教界にやらかしたことって、考えて見るとアメリカで本来使われている正しい意味での「反知性主義」なんですよね。卑劣傲慢無知蒙昧なリベサヨどもが意味もわからんくせに自分を偉そうに見せるために単なる「バカ」「ネトウヨ」「非国民」を言い換えただけの「反知性主義」て「罵倒語」と違って。
「反知性主義」てそれこそ猫町倶楽部月曜会課題本倉橋由美子「夢の浮橋」でも醜悪なその実態が描かれていたように、リベサヨエセ知識人が曲解し垂れ流しているせいで、「オレ様たち知的上流階級に反発するような愚かな大衆どもがのさばる風潮」とでもいうような誤ったイメージが日本では定着しています。


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しかし本来の「反知性主義」の意味は、180度反対です。むしろ、そういう思い上がった知識人による大衆蔑視、権力独占&乱用に対する反発のことを言います。
つまり「反・知性」ではなく、「反・知性主義」なんですね。思い上がって大衆蔑視しまくる学者等のエリートどもが「知性」の名のもとに大衆を「無知蒙昧」とヘイトし、権力を独占・乱用することへの反発。それが本来の意味での「反知性主義」なんです。


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さて、親鸞さんが浄土真宗を使ってやらかしたことを振り返ってみましょう。
それまでの仏教界においては、勉学に励み知識豊富で、戒律を守って厳しい修行をしてる僧侶たちが国家権力の庇護の下、天皇・貴族(さらには武士)と並んで権力財力をほしいままにしていました。そこにパンクな親鸞さんが登場し、「Yo!Yo!念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けんだぜ!fooo!(勉学も修行も意味ないぜ!むしろじゃま!)」とか言い出したわけです。つまり、知識を盾に既存の権力階級であった僧侶の既得権をコケにして脅かしたわけですね。まさに反知性主義。
日本学術会議やマスコミが束になって菅総理を「反知性主義」とウソこいた記事まで書きたてバッシングしましたが、そりゃ親鸞さんも同様に既得権まみれ金まみれの僧侶たちから恨まれデマを天皇に密告され、死罪や島流しにもあうわけです。今も昔も変わりませんね。

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