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周辺で生きる

今までずっと、嫌いな人間はどんな人?と聞かれたらずっと「自己中心的な人」と答えてきた。理由を聞かれてもそれは生理的にそうなんだよ、としか答えようがなかった。あの人たちにとって一番大切なのは自分で、自分以外の存在は自分へエネルギーを供給してくれる部品なのだと、そんなふうに思っていた。彼らは今日もどこかで他人を不幸にした過去を自分の若さゆえの過ちなんだと美化している。そして今の自分を成長できた素晴らしい人間なんだと豪語している。そんなことを人にべらべら話す人もそれを称賛する人も、心底くだらないなんて思っていた。

最近になって、その嫌悪の正体が嫌悪ではなくて、嫉妬に近いものなんじゃないかなんてことを思うようになった。というのも「自己中の人」ってきっと幸せだから自己中でいられるし、自己中でいられるから幸せなのだ。
人間ひとりひとりに「その人が中心の世界」があったとしたら、僕はずっと自分のことを大多数の人にとっての「周辺に生きている人」だと思っていた。僕は町民Aぐらいの存在で、決して主人公の人生に大きな影響を与えたりせず、ひっそりと慎ましく生きる。それが自分にとって善いことなのかどうかはわからないけれど、ただそうすることでしか自分の無能感や無力感を癒したりすることができなかった。
「自己中の人」は常に自分の目線でしか世界を認識していない。自分の世界ではもちろん自分が主人公だし、「誰かの世界」でも下手すると主人公、悪くても助演ぐらいのキャストだと思ってることだろう。でもきっと、自分が出演しているドラマが何本もあったほうが、あとで振り返ったときに自分に満足できるはずだ。別に「自己中の人」に取材しにいったわけではないから、これは僕のよくある妄想みたいなものだと思ってくれたっていい。でも、こういう妄想に駆り立てるのは。あぁやっぱり確信してしまった。やはりこれは一種の嫉妬という感情なのだ。

はっきり言って、他人のことなんて考えなくていい。他人のことを考えるのはそれが自分に戻ってくるとわかっているときぐらいでいい。そのぐらい本当は断言したい。でも、やっぱり自分の中にそう成りきれない自分がいる。僕は自分のことを比較的「利他的」な方だとは思っている。でも、その自信は他人の幸せを心から願えるからだとか困っている人がいたらすぐに手を差し伸べられるからだとかそういう弱めの根拠で成り立っている。
もしかして、他人を幸せにしようとすることによって自分が幸せになっているのと、自分を幸せにするために他人を幸せにしようとすることって、そんなに違いのあるものじゃないのかもしれない。そう考えると僕は途端に自分を利他的だと言い張る自分のことが浅ましく恥ずかしい人間に見えてくるし、一方であれだけ嫌悪していた自己中な人のことについては、自分のすぐそばにいながら自分が持っていないマインドを持ち合わせている人のようで、羨ましくなってしまうのだ。

僕もそんなふうになりたいよ、なんて言いながら、決してなろうともなれるとも思っていない。嫉妬は抱くくせにどうやっても中心で生きられないことに安心してしまっている自分に辟易しながら、僕は今日も誰かの周辺に生きている。

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