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祝祭、コンヴィヴィアリティ、グルーヴ、愛

こんにちは。最近色々なことがあって、だいぶ思うことがあったのでまとまった文章にしようと思いました。でも、文章を継続的に書くのは大事だと思うので、週一かその辺で継続的に何か書ければいいかなぁ、などと思っております。継続は難しい……

そういえば、最初は常体だったのが敬体に変わっていくという不手際はゆるしてください

今回の構成は、

1. 祝祭を真剣に考えた時、人生の見方が変わる
2. グルーヴで感じる、音楽と共鳴する楽しさ
3. コンヴィヴィアリティとは何か?その魅力とは
4. 愛の力がもたらす、社会に求められるものとは

 この4つらしい。なっがい。我らがnoteにもAIアシスタント機能が出てきたということで、恐らくChatGPTか何かなんだろうか~?と思いつつ、最近思っていることを書いてみたいから、構成を考えてくれ、といってこの構成を出力してみた。
恐ろしいスピードでChatGPTは世界に溶け込んだなぁ、そしてデジタルネイチャーについてはぼくはハッキリ言えば良く分かっていないけれど、計算機自然のビジョンが見えつつある、前夜の感じがする。ちなみにヘッダーはAIイラストでt2iで作りました

ところで、最近ぼくを席巻する思想というかキーワードに、祝祭、コンヴィヴィアリティ、グルーヴ、愛の4つがある。もっぱら社会学とかその辺から引っ張ってきたものである。これらについて、AIに考えてもらった見出しとともに咀嚼していく。

1. 祝祭を真剣に考えた時、人生の見方が変わる

 これらの見出しは全てAIに考えてもらった。うん、そうは思うけれどもあまりにストレートすぎるんじゃないか?

祝祭はお祭りの感覚だ。平易に言えばどんちゃん騒ぎと言ってもいい。固いことを考えず、適当に騒いでも大丈夫、っていう包摂、解放の時間であり、自由のフィールドである。

これの価値を語るには、どれだけ現代社会がクソか語らないといけない。人々の心が冷え切って、誰も話し合うことが出来なくなってしまっている、小さな島宇宙が乱立していて、その宇宙と宇宙は繋がりようがない、というクソッタレな分断の状況を理解する必要がある。これは2020年、コロナパンデミックにより、大学のキャンパスが閉鎖されたりして、さらに大学は「たまり場」としての機能を失ってしまったことにあるし、オンライン授業だけやって、ハイ、大学やりました~、一年駒を進めてくださいね、という態度には腸が煮えくりかえる。

そして、そんな潮流が数年も続くわけで、そのように数年も過ごしていると、たまり場としての大学の機能を知る者が大学内で非常に少なくなる。このパンデミックが4年続かなくて本当によかった。

そもそもパットナムをご存じであればこの分断の状況は、彼や、ブルデューや、その他大勢のポストモダニズム論者によって語り尽されているわけで、かような状況をSNSが後押ししたというのは、さもありなん、というところだ。全くその通りだと思った。そうなってしまうと、大学に限らず、社会はますます機能的(機能ありき)になり、人は共通項のないところには友情を見出せなくなり、まるで全く別の人間のように、まるで理解し得ない存在のように見えてしまうのだ。

この件についてはこの前にファシリテーションを専門にされており、企業人事をされている方とお話しする機会があって、その際に「今の就活生は一言一句覚えてきたものを、スピーカーみたいに繰り返す奴ばっかりだ。自分の言葉で話せばいいのに、頼むから、自分の言葉で話してくれぇ~!って願ってるんだけどね……」と漏らしていた。企業人事は一度に数百人の人を見る訳だから、確かに覚えてきた言葉を言われると、それは一度なら個性かもしれないけど、それが十回、百回と続くともう飽き飽きするだろう。そう悲痛な叫びを心のうちに漏らすのも分かる。
 たぶん、それは「企業人事の人は企業の人として、マシーンみたいなものである」と、どこかで就活生が非人間的に人事を理解しているからだと思う。非人間、つまりAIか何かだと思っていて、情もヘッタクレもない企業のロボットかなにかだと思っているんだろう。ぼくは就活の真っ盛りだから分かるが、確かに人生一世一代の大博打になって、高々20年くらい生きた時に、自分の言葉に自信をもって語れるかは不安だとは思うが、それにしても、自分の言葉を信用せず、そして企業人事の方の人間性を信用しないのは、それこそ社会全体に対する不信そのもののように見えてもの悲しい。

 だから、あらゆる垣根を超えて、祝祭というルールや役割の外に連れ出すフィールドがいるのだと思う。人は同じ人だと理解して、少し肩の力抜いてやる方が、ごりっごり、まるで理解の行かないマシーンか何か(今はAIですら擬似的に感情を理解するフリすらできる)ではなく、言葉から、ルールから、自らの井戸から開かれた方が、多分ラクに生きられます、それで、知らん人とも、喜びを共有出来るというフィールドはやはりルールという力場の外にあって、それは祝祭という形に表出するんじゃないかなって思いました


2. グルーヴで感じる、音楽と共鳴する楽しさ

 祝祭を共有できる、そのディスコース(言説)がグルーヴ。その場所に居て、みんなで同じ音楽にノる。ぼくは2022年、落合陽一先生の主催するDJイベントに参加しました。論評を書いた時に、「古民家を貸し切ったジャズイベントでDJをやるなんてけしからん」みたいなことを最初思いましたけれども、最終的にぼくはグルーヴにノったのでした。ぼくはあのイベントを思い返すに、DJ落合はそんなジャンルの領域を気にしておらず、多分グルーヴを共有して、みんなにノってほしかったんじゃないかな、と。もちろん視覚的にも非常に豊かではありましたが、民藝というテーマ性、ローカリティに乗っかりつつも、根本的な音楽のメッセージはそうだった気がします(最初のアナウンスで、「ノると楽しいので、ノってください」という趣旨のことを非常によくできた表現で仰っていたと思う)。だから、ふとあのフェスの最後の方、後ろをチラチラ見まわしたときに、DJなのにノりもせずみんな真剣に聞き入っていて、「権威に負けてる……」と思ったんです。なんだか侘しい気持ちになりました。

 人が何かを伝えるには様々な方法がありますが、その中の最も根源的なものは、多分絵と音楽です。そのうち、音楽は同期的で、特に音楽の複製が始まるまでは、音楽はもっぱら空間や持続と切り離せなかったんじゃないでしょうか。音楽が製作者の手元を離れ、地球上のいつでもどこでも聴けるとなると、音楽の連結する情景は個人化されていきましたが、音楽は当初は製作者のマニュファクチュアリングの光景と、その同一の感覚に包まれていたはずなんです。これは祝祭のディスコースなんです。

3. コンヴィヴィアリティとは何か?その魅力とは

コンヴィヴィアリティとは、ぼくは正直まだ勉強不足なので改めて消化ののち記事にしたいと思うが、ちょっとChatGPTに聞いたのをコピペしてみようと思う。

ぼく:
ねえねえ、コンヴィヴィアリティってなに?

ChatGPT(GPT-4):
コンヴィヴィアリティとは、人々が一緒に楽しく過ごす、親密で友好的な雰囲気を指す言葉です。特に、食事や会話、祝賀会などの社会的な集まりで、人々が互いに楽しむことができる状況を指すことが多いです。コンヴィヴィアリティは、人間関係を築くために重要な要素とされています。

ぼく:
誰が提唱した考え方なの?その人はどういう風に説明しているの?詳細に教えて~!

ChatGPT:
コンヴィヴィアリティという概念は、哲学者イヴァン・イリッチによって提唱されたもので、彼の1973年の著書『Tools for Conviviality』で詳しく述べられています。イリッチは、コンヴィヴィアリティを人間中心の技術や社会システムの中での個人の自主性と創造性を重視する考え方として説明しています。彼は、現代社会での技術やシステムが個人の自由や創造力を抑圧し、人間関係を破壊していると主張していました。それに対して、コンヴィヴィアリティは、人々が自由で平等な関係の中で共有し、お互いを尊重しながら協力して生活することを目指す概念です。イリッチの提案するコンヴィヴィアリティは、技術や社会システムを人間のニーズや価値観に適応させることで、より健全で持続可能な社会を築くことを目指しています。

技術やシステムは、言えばテックのことで、これらが人を快適ぬくぬくにして、温室育ちにすることで、逆に人は人を頼ることが出来なくなった。そこに困難を超える絆は生まれにくくなり、それは資本的な意味でも平民の貴重な絆という資本を奪っていったんです。

だから、この本について言うならばトンチンカンなことを言っているかもしれませんが、人間が主体となり、テックを人と人を繋げる道具として、リソースの共有、つまり同人的な制作の在り方に収斂させていくのがいいんじゃないかと思いますけどね。(例えば、同人製作の場合、A氏がスキルAを出して、B氏がスキルBを出し、プロダクトXを生成する)

4. 愛の力がもたらす、社会に求められるものとは

この前、丁度「愛するということ」(エーリッヒ・フロム)を読みました。この本は美しい本です。是非皆さんにもおすすめしたい。

フロムは、実は祝祭やグルーヴについて上手く説明しています。この本はもっぱら愛の話ですが、愛を同一の形として見た時に、祝祭は同一の一形態であるとしています。祝祭は一時的ではあるものの、同一をもたらすという意味において、この文脈では肯定的に語られています。

他の方法だと、セックスや、創作的な活動も同一の方法に挙げるのですが、これらは不完全な方法で、フロムは完全なる合一は主体同士の愛だと主張します。

愛と言うのは性愛のみではなくて、無力な者や、貧しい者に対する助けが、愛の始まりだといいます。友愛は対等な者同士の愛の関係づけですが、愛の始まりは貧者を救うことにあり、そこに愛が開花します(母性愛)。「旧約聖書いわく、「汝らはエジプトの地でよそ者であったがゆえに、よそ者の心を知る。(中略)それゆえ、よそ者を愛せ」。」(Fromm, E. (2020). 愛するということ (鈴木晶, Trans.). 紀伊国屋書店.)

ここでもう一つの愛の形態、恋愛について語ると話が交錯するので贅言は避けますが、恋愛もまた合一の形で、優しさをベースにおいてのみ成り立つものです。

 ところが、愛はまず自己を満たさないと与えられる主体には成り得ないのです。ここに問題があります。愛は生産性の表現でありますから、つまり対象と自己は二項対立の構図になく、自分の愛する能力において他人の幸福と成長を願う営みにあります。利己主義は、愛は与えるものであるという意味において健全な自己愛(それは他人をも間接的に包摂する)とまったく区別される概念にありますし、徹底的な利他主義もまた、自己の愛する能力を無視するあまり、実は愛することが全くできないということにもなります。

だから、人を信用できない社会に、大事なのは自己をさらけ出して、いわゆる「子ども110番」的な存在になることだと思います。ぼくは何かあった時には正面切って君を助けるからね、と言える存在でありたいし、助けを求めてくれた人には全てを以て答える。それは人々の成長と幸福を願えるようにならないとできません。

でも、これは非常に難しいことです。その段階に自分がいないな、何をいってんだコイツはってなっているんなら、なんだってそんなに不満なのか、辛いのかを大声で助けを求めてみて、それで誰かが助けてくれたら、助けてくれる人と仲良くしたら良いと思います。自分がこうなったのはXXのせいだ~、って責任の所在を擦り付けてナイフを振り回すより、同じ激しい感情の表出の方法としては、助けてくれって叫びまわった方が、多分幾分かマシです。だから、まずは誰かがあなたを幸せにしてくれて、その祝福を得たならば、その祝福を胸に、今度は誰かを幸せにするっていう社会の在り方に、いい感じに祝祭とグルーヴ・コンヴィヴィアリティを訴えつつ推移していかないかな~、などと願っています。

https://www.youtube.com/watch?v=jQfvnN0GgTI

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