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対話の時間

ぼくは基本的に誰かと話す時、1対1、いわゆるサシというものが好きだ。その場にいる人数は多くても4人くらいまでが限界だと思っている。

酒は好きだが居酒屋のノリはディジーで苦手で、話題は枝を飛び移る猿のごとくあっちこっちに行って見えなくなるし、ぼくみたいな静寂が皮を被って生まれてきたような人間が何か話に首を突っ込むのもできるはずがなく、最終なんとか話題の主導権のバーゲンセールにようやく手を伸ばそうとしたら、まるで大人しかったあの同級生が殺人事件を起こしたに等しい、瘴気が巻き起こる。ここまで言うとだいぶ針小棒大ではあるが、ぼくの感傷から覗けば、都合こう見えているというところである。キャンプファイヤーに、良かれと思って湿った木の枝を入れたあとのような寂しさがある。一旦出た話題は煮詰まるところまでやりたいわけで、矢次早に次の話次の話とされては目が回ってしまう。

残念ながら鳴き声がウェイでは無ければ乾杯の音頭もKPでもない(部活の後輩のそれなんか「やった〜」にするくらいだ。良い後輩を持ったと思う)ので、もともとそれほどコミュニケーションの移り変わりに機敏な方ではなくて、話題についてぼくは凝り性なのである。そのくせ頭も凝り固まっているから、ぼくがイニシアティブを取って切り出そうとすると真面目な話かNintendoのゲームの話しかできないから、こうやってせこせこ文章に書き起こすということをしている。

他方で宴も酣となり、誰かの家で二次会と洒落込むとなるとここは大好きで、いよいよ「対話」がはじまる。ぼくはそんな瞬間を楽しみに、晩ごはんに着いていくことが多々ある。

たしかに大人数のコミュニケーションというのも全くの無価値ではない。そもそもぜんぜん話さない人の意外な一面が見えたり、当然大人数になるから色んな人と話す機会が与えられるので口数も自然と多くなる。賑やかな人だけでなく、ぼくも呼んでくれるんだというから光栄ここに極まれる。ありがたいことだ。

それを差し置いて、上っ面のコミュニケーションにぼくは向いていない。一次会で話したことなんかや、挨拶ついでに交わした言葉なんて覚えている由もない。部活の年度終わりの納会なんか、しまいには大きい卓の盛り上がりを他所に、ひどいことに「魁!男塾」を裏で見て過ごしていた。なんて部活人生の終え方だろうか。冨樫の油風呂、漢気あって格好良かったんだがなあ。それから一号生同士の訳の分からない団結も美しい。赤司は刀で車を斬るんじゃないよ。じゃなくて。

そもそも、限られた人数、関係性下における下世話な話から、人生の話やら音楽の話やら、あらゆる事を、声のデカさに影響されず誰からも平等に話して許される雰囲気と向き合われる空間というものの希少性と、その価値。その人数、その言論空間が確保される限界の人数が4人あたりではないか、と考えている。どれだけしょうもない話でもじっくり煮詰められる時間や関係性というもの。話題の話題性にブラインドがかかって、話題がそれ自体裸で現れてはじめて、沈黙をコミュニケーションのうちに算入することが出来る。



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