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自認と他者の認識のずれをどう認識していくか

有名人の訃報が続きますが、死んでからその人の功績をたたえるのもいいですが、その人が生きている時にたたえてほしいとおもいます。生きているうちにその人の人生を総括するというのは難しいと思いますが、好きでしたというのは生きているうちにできる限り言いたいです。推しは推せるときに推せといいますが本当にそのとおりで、今という瞬間がかけがえのないものだとしたら、一瞬一瞬を大事にしていけると思うわけです。

少し話題が変わり、Aさんという人がなくなったとして、そのAさんはどういう人だったかということについて、Aさんが全盛期で一番有名だったときをその人らしい時期、Aさんと言えば〇〇だよねということになります。つまりAさんというのは、死んでしまった人でもなく、その直前であり最新のAさんはAさんらしいものではなく、Aさんだった人というものに近い認識になるわけです。

今、合成音声でその人らしい声で声をつくることができるAiがあります。死んでなおその人らしいことを言うことができます。Aさんらしいというのは、死んだAさんではなく、そのAiでかたちづくったAさんがもっともAさんらしいコンテンツとして認識される。今からそういったことがさらに進み、その人らしさとは何かという議論になっていくでしょう。きっとその人らしさとは、自認と他者の認識ではずれがあるから、タレント業のようなイメージを損なうことが好ましくない仕事ではない限りは、自分が認識する自分らしらを優先していきていけばいいとも思います。

先日、アントニオ猪木さんが亡くなりましたが、きっと猪木さんのイメージは、力強く、体が大きく、ビンタをして、元気でいるということでしょう。しかし、猪木さんは最後まで世間のイメージとかけはなれた今の自分の本当の姿を発信し続けました。自認を貫きつづけたわけです。こういう人こそ真の意味で強い人であるというのかもしれません。

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