見出し画像

【書評】檀 廬影 - 僕という容れ物(立東舎) -

おすすめ度:★★★★☆
読んでほしい層:10代後半~20代前半

Simi Labのメンバーとして活動していた(現在は脱退。)DyyPrideこと檀 廬影のデビュー作。

話は大きく2部構成となっている。主人公の「僕」と過去に生きた「ギン」。時間軸を超えて、二人の苦しむ人間たちの葛藤を描きながら最後には「僕」がある種の真理に到達するという物語。

この作品の根本にあるのは「不完全である自分」とどう向き合っていくかということなのだろう。人間は誰しも完全でありたいと思う。だが実際は完全になることは難しい。もしかすると、不可能なのかもしれない。なぜなら人間は本来不完全なものだから。それでも完全を目指そうとするから心や体に痛みが走るのだ。「ミックス」であるという著者のアイデンティティはそうした不完全さを強く意識する根源的な理由の一つなのだろう。彼のラップを聴いていても、生きていくことの難しさ・痛みを感じさせる節が少なくない。

では、どうしたらその痛みはなくなるのか。 きっと主人公の「僕」が苦しみの果てに見つけたものは「創造」という行為なのだと思う。不完全に起因する痛みを埋めていくことこそが「創造」なのであり、それは、痛みを超えて(或いは痛みを内包しながらも)生きていくための一筋の光となり得るのだ。いや、痛みを超えることは死ぬまで不可能なのかもしれない。ギンがそうしたように死ぬことでしか人は完成されない。それでも「僕」が生きていく決意をして作品が終わる部分に、生の理由・光が見えたような気がした。

作品としてみた場合、まだまだ荒削りな印象はある。文章と文章の繋がりに唐突さを感じたり、主人公やギンがなぜそうした行動をとったのか、もう少し心理描写を丁寧に書いてほしい、と感じる節が多々あった。著者としては行間を読んでくれ、という意図があるのかもしれない。しかし優れた文学作品であればあるほど、話が飛躍する際に(=一般論・常識から乖離する際)、描写や筋立てが繊細でロジカルになっていくものだ。

それでも、この小説にはそうした「粗さ」を補って余りある「みずみずしさ」或いは「なまなましさ」がある。特に物語のラストは素晴らしく、DyyPrideのラップを昔から聴いている読者であれば胸に何かが残るだろう。私の思う「素晴らしいラップ」というのは作品を通じて自己の葛藤を"一人称"で表現するもの。DyyPrideは絶え間なく、彼独特のユーモアを交えながらも「自分の痛み」と「それを乗り越えようとする清々しさ」を表現してきたように思う。文学作品になってもそうしたスタンスは全く変わっていないし、表現自体もラップの焼き増しではなく、新しいDyyPride/檀 廬影の内面に触れられる作品になっていると思う。

「全ての苦しむ人々とマイノリティに捧ぐ」

様々な問題を抱える現代社会。冒頭のこの言葉の通り、今を生きるDyyPride(檀 廬影)の言葉に心を揺さぶられる読者は少なくないはずだ。

この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?