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髪の毛の話

髪を切った。
トイプードルくらいの大きさの髪の毛の塊が足元に転がっていた。
「ハイライト入れてもいいですか?」
「好きにして下さい」
あれほど時間と金をかけ手入れしていたものが、今はもう只の生ゴミだった。

「長い髪も見てみたいな」
クリームあんみつを食べている私を見ながら、彼は言った。
当時の私の髪は全体にふんわりとパーマをかけ、肩に付かないくらいの位置で揺れていた。
「えーじゃあ、伸ばそうかな」
私はクリームあんみつの美味しさで頭の中が95%ほどいっぱいだった(私の頭は容量が少ない)ので、残り5%を使って適当に答えた。
「ほんと?やったあ!」
思いの外、彼が嬉しそうに笑うので、私もクリームあんみつから髪の毛へ頭の中を切り替えた。

彼と出会う前、私の髪の毛は黒く、胸の辺りまで伸びていた。
別に長いのが好きで伸ばしていたわけではないのだけれど、髪が長いと美容室に行く頻度が少なくてすむので(私は前髪は自分で切っている)、出不精の私は伸ばしっぱなしにしていた。
パーマさえかけていれば、伸ばしっぱなしでもなんとか形にはなるのだ。
また、髪が長いと「女」として見られることが多かった。
歩いているだけで声をかけられることも多く、特に相手もいなかった私はその瞬間、自分の「女」としての価値を感じることができた。

そんな日々を何年か過ごし、出不精ロングヘアーにも飽き、ある日ばっさりと切った。
黒いトイプードルくらいの大きさの髪の毛の塊を落とし、さっぱりした頭で季節を一つ過ぎた頃、彼と出会った。
その頃の私は以前より「女」として見られることは少なくなっていたが、彼は違った。
初めて出会って二週間後、駅の改札前で告白されてから、私はずっと髪は短いけれど「女」であり続けた。
黒から茶色、茶色から赤、赤から茶色と色の変化はあれども、髪の毛はずっと肩の位置で揺れていた。
一年ほど経ち、鎌倉の茶屋で髪の毛の話をしてから私の髪は少しずつ、肩を越えていった。
しまっていた手入れ用品を引っ張り出し、ヘアアイロンが机の上に常備されるようになった。
ヘアゴムやヘアピンが部屋のあちこちにたくさん転がっているようになり、風呂場の排水溝は詰まりやすくなった。
ネットで動画を見てヘアアレンジに挑戦した、髪をくくる私を彼は愛おしそうに見た。

彼に別れを告げられたのは、髪を伸ばし始めて一年半ほど経った時だった。
あと二ヶ月ほどで付き合い始めて3年が経とうとしていた。
私の髪は胸の上辺りまで伸びていて、後ろで一つにまとめるか、お団子にするかという日々を過ごしていた。
彼以外の男からも「女」として見られることが多くなっていた。
しかしもう、彼は私を「女」として見なくなっていた。
お互い泣き腫らした目で駅の改札前で別れた。

それから季節を二つ越え、髪を切った。
茶色のトイプードルくらいの大きさの髪の毛の塊が足元に転がっていた。
「ハイライト入れてもいいですか?」
「好きにしてください」
あれほど時間と金をかけ手入れしていたものが、今はもう只の生ゴミだった。
胸の下辺りまで伸びた髪はきっと、一年半ほど前、彼が見たかった私だろう。
髪の毛は彼に見られることのないまま、ハサミでショキショキと切られていった。
「こんなに長い髪を切ることも滅多にないので、ドキドキしちゃいます」
美容師が笑いながら言った。笑顔の可愛い人だ。
「以前はこのくらい短かったんですよ」
私もつられて笑いながら言った。
二人でキャーキャー言いながら髪を切り、切られた。
トイプードルがどこかに回収された後、鏡に映った私の髪は耳より下くらいの位置だった。

美容師に見送られ、家に帰り、ヘアアイロンをしまった。
ついでにこのまま掃除をしようと、掃除機をかけた。
部屋の隅に落ちている埃と長い髪の毛をどんどん吸い込んでいく。
ある程度終え、部屋を見渡すと、僅かに見覚えのある短い髪の毛が落ちていた。
くるんとカールした天然パーマの黒い髪は、一年半ほど前からそこにあったのだろうか。
私はしばらく眺め、その髪を掃除機で吸い込み、中のゴミをゴミ袋へ捨てた。

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