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歪んだ愛のカタチ

機能不全家族で育った私は、大切な人に尽くすことで、誰かから必要とされることで、自分に自信をつけていた。
大好きな夫のために頑張ることに幸せを感じていた。
裏を返せば搾取されるだけの人生だけれど、夫が好きなものを好きになり、夫が行きたい場所に行き、夫の色に染まることに幸せを感じていたのだから、歪んでいるとはいえ、それもひとつの幸せのカタチだったのだと思う。
夫婦二人だけのときは、それでうまくいっていた。
夫からの優しさも感じていた。

数年前、次男のことでいろいろあったときに、すべてが壊れたのだと思う。
子育てに関する根本的な価値観が違う。
障害を持っていた長男のときは、その障害の部分に全力で対処していたため、一旦子育ての価値観の違いは置いておかれた。

夫は自分の思い描く通りに育たなかった次男を否定し、そして私に「お前が甘やかすからこうなった」と言い放った。
その頃から、もう愛なんてなかったのだ。

私の意見など聞く耳を持たなかった夫は、次男が通う病院の心理士からいろいろ言われて、やっと理解してくれた。
私がどれだけ言ってもわかってくれなかったけれど、権威のある人からの言葉は夫にとても効く。

そのあと昔のように穏やかに戻った夫は、きっともう私が大好きな夫ではなくなっていたし、夫にとっての私は身の回りのお世話をする便利なだけの存在になっていたのだ。
私はそのことに薄々気づきながらも、まだ愛はあると思いたかったのだ。私の方はまだ、夫への愛があったから。

私が使いやすいようにキッチンをリフォームしてくれたのも、私はとても嬉しかったけれど、今は「金をかけてこれだけ整えたのだから文句を言わず家事をしろ」という圧しか感じない。
夫は定年退職して時間ができたとしても、結局家事はやりたくないのでしないというスタンス。
私はしんどくても、やらなければいけないから何十年も頑張っているのだけれど……。

お手伝いは最低限してくれるけど、本当に最低限だ。
でも、夫がしてくれたことにはきちんと「ありがとう」を言う。
愛はなくなってしまっても、してくれたことへの感謝の気持ちは伝えたい。

夫も私が淹れたコーヒーを受け取る時「ありがとう」と言うし、食事の前には必ず「いただきます」を言う。
とても優しい声で。
何事もないように、最低限のあいさつだけはしてくれる。

その優しい声が、今は逆に辛い。
私がかけてほしかった優しい言葉は別にある。
それは永遠にもらうことができない。


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