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ハタチの俺よ顔を上げろ

自分の人生が惨めで貧乏でダサくて情けないのは、
親のせいでも環境のせいでも政治のせいでも陰謀のせいでも何でもなく、
ただ単に自分の努力不足が原因だと自責で考えられるようになって
初めて自分の人生が始まるー

私の20代前半は、惨めで貧乏でダサくて情けない自分との戦いだった。ハタチの私は、私が嫌いだった。何者にもなれない、何もできない、何をすればいいかも分からない。八方塞がりだった私は、自分の人生がダサいのは親のせいであり環境のせいだと、自分でコントロールできない相手に対して文句を言っていた。

4月から社会人2年目になった。そうだ、TwitterやInstagramのプロフィールも書き換えないといけない。大学を卒業し、社会人生活にも慣れ、私は25歳になった。ハタチからの5年間を振り返ると、ものすごくたくさんのことがあった。ただ一つだけ言えるのは、私はもう惨めで貧乏でダサくて情けない私と決別できた、ということだ。25歳の私は、大人として経済的に独立し、素晴らしい友人も増え、この東京でしっかりと二本足で立つことができている。

この前、両親を連れて旅行に行った。親孝行というやつだ。両親は土日休みではないから、有給をとって旅行に行った。私が特急を予約し、ホテルを取り、ディナーと朝食も予約し、アクティビティもアレンジした。温泉が付いているホテルで、二人は久しぶりの落ち着いた時間を楽しんでいた。

私は基本的にはよくできた息子だった。精神的に老成した少年だったと思う。親に言われなくても勉強をしたし、門限を守ったし、図書館で借りてきた本をずっと読んで、一人の時間を楽しめる少年だった。贅沢をねだったりもしなかった。自分のために貴重なお金が使われることに極めてセンシティブで、たまに外食に行くときも一番安い定食を、親に気を遣って安いのを選んでいると悟られぬよう、自分はこれがいいと伝えることができる子どもだった。

ただ一度だけ大喧嘩をしたのがハタチのときだった。奨学金を制度をよく理解していなかった私は、1年生のときにもらっていた給付型の奨学金を4年間ずっともらえると勘違いしていた。もらえるはずだった50万円が振り込まれず、この50万円を貸してくれないかと交渉して、喧嘩になった。そんな金はうちにはない、自分で用意しなさい。学費の振込まであと2ヶ月しかないのに、そんなお金どうやって用意したらいいんだよ。土下座をしてもダメで、私はその日から両親と全く口を聞かず、自分と向き合った。


自分の人生が惨めで貧乏でダサくて情けないのは、
親のせいでも環境のせいでも政治のせいでも陰謀のせいでも何でもなく、
自分の努力不足が原因だ


ハタチの私は、お金もないし、友達もいないし、恋人もいなかった。将来やりたいこともなくて、何のために大学に行ってるのか分からなかった。50万円という当時の私からしたらかなりの大金を、自力で用意しないと大学を去らなくてはいけない、そんな状況に陥って初めて、私は自分の惨めで貧乏でダサい人生と一対一で向き合った。そして考えた。私は私の力でこの状況を脱して見せよう。私は私の努力不足が原因で、惨めでダサい人生を送っている。それを逆転するには、私は私に鞭を打って、勉強して行動して失敗して成功して、紆余曲折を繰り返さなくてはいけない。ハタチの私は決意した。あの日のおかげで今がある。

今では両親とも仲良くなった。両親は私が社会人をしながら、ペンネームで執筆活動をしていることを知らない。私はこの執筆活動のおかげで学生時代から両親に依存せず経済的にある程度独立し、学費を一部払いながら一人暮らしをした。両親からしたら息子が何をしてるか分からず、不審にも思っていただろう。しかしそこは口には出さなくても信頼関係があったから、深くは詮索してこなかった。血がつながっているとはいえ、お互いは独立した一人の人間である。私は兄弟含め全家族のこのような適度な距離感を保っている。

温泉に入って、美味しいご飯を食べて、観光をして、両親を連れた旅行は終わった。夕暮れの田園風景を、スペーシアは進む。通路を挟んだ向かいの席で、両親は寝ていた。久しぶりの旅行に疲れたのだろう。

寝ている彼らを見て、私は思った。

私の私に対する20代前半の戦いは、今終わったのだと。

惨めで貧乏でダサくて情けない人生を、私の力で脱することができた。東京まで電車で行ける距離に実家があるなど幸運な点をもちろんあった。しかしそれを差し引いても、私は私の力で惨めなハタチの私を見返すことができたと言えると思う。経済的にも独立し、大切な友人もいて、こうして両親に恩返しの旅行をプレゼントすることができるようになるとは、ハタチの私は思いもしなかった。

ハタチの俺よ顔を上げろ

自分の人生が惨めで貧乏でダサくて情けないのは、
親のせいでも環境のせいでも政治のせいでも陰謀のせいでも何でもなく、
ただ単に自分の努力不足が原因だと自責で考えられるようになって
初めて自分の人生が始まる

ハタチで自分の人生がダサいのは自分の努力不足が原因だと向き合い、足掻いたことで今がある。ハタチの俺よ顔を上げろ。その決断は正しい。ハタチの私にまた会えるとしたら、その決断に拍手を送る。この先2,3年は苦しいが、頑張れ。今、お前の人生は始まったんだと。顔を上げろと言うだろう。

浅草に向かうスペーシアの、途中の駅で両親は降りた。

「本当にありがとうね、いつでも帰ってきてね」

ホームから見送る両親の姿が、少し小さくなったように見えた。私が大きくなったからか、彼らが年を取ったからなのか。あと何回両親に会うことができるのだろう。また近いうちに実家に帰ろう。何か美味しい手土産でも持っていこう。

スペーシアが、私が生まれ育った街を通過していく。国道沿いのあのマックで浪人時代勉強していた。この駅で、暑い日も寒い日も英単語帳にかじりつきながら、北千住まで早くつく急行を待っていた。何者でもなかった、浪人生だった19歳の頃の思い出を通り過ぎていく。戦いは終わったのだ。もう私は惨めじゃない。

よくやっている、よくやっているよ。本当に。でも。

北千住をすぎ、スカイツリーの横を通過し、スペーシアが間も無く浅草に到着する。そこで乗り換えて、私の住む街に帰る。

でも、俺はもっとできる。もっと行ける。もっと高いところへ。

全然足りない、全く満たされていない。音楽はまだ頭の中になっていて、毎日内側から俺を叩いている。

もっと、もっとだ。もっと欲しい。もっともっと興奮が欲しい。まだまだ行ける。俺ならもっと。さらに高く、高く。

20代前半の戦いは終わった。だが、新しい戦いが始まったのだ。今。

これから惨めでダサい過去の自分との決別のためでなく、自分自身の興奮のために、創造的活動のために戦うのだ。

頭の中に音楽を鳴らし続け、ドル箱をぶっ叩き、体と頭を鍛え、もっと強く、最強にならなくてはいけない。

本を読み、人と会い、美しいものに触れ感性を磨き、昨日より今日、今日より明日、強くなることを繰り返さないといけない。

狂ったほどの強迫観念。血が滾ることがしたい、という渇望。

全部を受け止め、高みを目指す。興奮と創造が次のテーマだ。

退屈を捨て、生産を。興奮を保って、ドル箱を叩く。

次の戦いが始まる。高みをさらに目指す。最強になるために。

それでは素敵な1日を。





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振り返りnote

最強になるために生きています。大学4年生です。年間400万PVのブログからnoteに移行しました。InstagramもTwitterも毎日更新中!