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迫りくる格差社会を前に僕たちが決めなくてはいけないこと

2021年12月17日、大阪北新地の心療内科クリニックの入口に男がガソリンをまき放火をし、25人が亡くなると言う痛ましい事件が起きました。容疑者の61歳の無職の男も煙を大量に吸い込んだことによる一酸化炭素中毒が原因で死亡。犯行の動機の解明は非常に困難でありながらも、メディアでは自身の人生に対する絶望と医師への嫉妬が動機なのではないかと憶測が飛んでいます。

その2ヶ月前の10月31日には東京の京王線の電車内で無差別刺傷事件が起きました。逮捕された職業不詳の24歳の男は「仕事に失敗した。退職に追い込まれ、友人関係も薄れた。死にたかった。だれでもいいから2人くらい殺して死刑になろうと思った」と語っています。

人生に絶望した男が街中で無差別殺傷を繰り返し起こすという現実は、まさに映画「ジョーカー」そのものです。京王線で事件を起こした男も、ハロウィーンの夜を狙っておりジョーカーの扮装をしていました。東京に限らず、日本中どこだって、ジョーカーに登場するゴッサムシティと同じような恐怖の街になり得る恐れがあるのが今の日本ではないでしょうか。

実際問題として、客観的なデータから見ても格差はどんどん広がっています。格差と聞いて真っ先に思い浮かべるのが賃金です。厚生労働省の「令和2年賃金構造基本統計調査」によれば、男性の高卒の平均年収は295万円ですが、大卒は391万9000円です。実に96万9000円と100万円近い差があります。女性の場合は高卒が218万円、大卒が288万3000円と、70万3000円の差があります。データとして高卒より大卒の方が平均年収が高いというのは一つの事実です。ここに高卒と大卒という分断された格差があります。

家庭環境も格差の最たる所以の一つです。大学へ進学するためには高校や塾の費用など親のサポートが必要です。母親または父親のみの場合、得られる援助は少なくなるわけですから、大学へ進学できる可能性は低くなります。また親がいたとしても、教育への理解がなく大学進学どころか高校進学も認められず、そのまま地元で就職することを余儀なくされる家庭もあります。その一方で裕福な家庭では幼少期から親が教育に課金をし、受験をして中高一貫の私立に通い、そのまま大学へ進みさらには留学費用も出してくれることもありますから、当然前者とは経済的な格差が生まれます。これが家庭環境の格差です。

しかしこれは今に始まった話ではなく、ずっと昔から起こっていた話です。しかし今になって格差が叫ばれるようになったのは、SNSの普及が大きな原因となっていると僕は考えています。本来で会うはずがない人間同士がスマートフォンを通して向こうの生活を垣間見る機会が増えてしまった結果、嫉妬・絶望・怒りが増幅されているのだと思います。

InstagramやTikTokでは華やかな生活を送る容姿端麗な男女が見たくなくても表示されます。数万円もするディナーを楽しみ、1泊10万円以上するホテルに毎週泊まり、自分の稼ぎでは到底できない華やかな生活を謳歌しています。これまではそんな世界があることは、普通に生きていれば知る由がありませんでした。しかしSNSが普及した今、誰でも簡単に本当だったら出会うことがなかった人たちの生活を見ることができてしまいます。大抵の場合そう言った華やかな一面は虚飾されており、実態はボロボロな場合も多いのですが、一部の人からは猛烈な嫉妬の対象になります。「なんでこいつらはいい生活をしているんだ」「俺は頑張っているのにこいつらはずるい」嫉妬や怒りの感情を胸に閉じ込めておけない人たちは、彼らのSNSに対し悪口を書き込むようになります。それだけでは飽き足りない、もっと酷い目に合わせてやりたいと危険な衝動を抑えきれない人の一部は、実際に犯罪に手を染めることになります。実名顔出しで行動範囲まで分かるようなSNSをやっている人は、本当に危険な世の中になっていると僕は感じています。いつどこから包丁を持った男が刺殺しに来てもおかしくありません。それくらい人の妬み僻みは恐ろしいものです。

また直接危害は加えなくとも、SNSを使えば妬ましい人間の存在を消すことができます。最近、僕の好きなYouTubeチャンネルが炎上し、配信が停止される事態が起きました。主要メンバーの複数名が賭博行為に手を出しており、それが明るみに出たことで批判を浴び、配信停止にまで追い込まれました。犯罪行為を容認することはできませんが、SNSがなければこんなことにならなかったのも事実でしょう。賭博行為はもちろんダメですが、その事実を知っているのが数名だったら事件は明るみに出ません。しかしSNSでは噂は一度知れ渡れば、爆発的に拡散されます。インフルエンサーのように万を超えるフォロワーがいなくとも、数百名のフォロワーがいれば自分がリツイートすることで一気に数百人がそのツイートを知るわけです。さらにその数百人のごく一部が拡散するだけで、さらに数百人数千人がさらなる拡散を起こし、指数関数的に噂は広がっていきます。今回賭博行為をしていたメンバー全員がビジネスで成功した実業家であり、彼らに嫉妬の感情を抱いていた人たちは嬉々として拡散したことでしょう。こうして顔出し実名で発信をする人たちは、ネット上の名も無き人たちの無言の団結によって一夜にして評判を失墜するリスクと隣り合わせで生きなくてはならなくなりました。

しかしながらいくら嫉妬と怒りの感情で誰かを攻撃しても、格差が縮まるわけではありません。嫉妬と怒りの感情に身を焦がしていても自分にプラスとなることは一つもありません。差はどんどん広がるばかりです。では何も持たない僕たちは、迫りくる格差社会を前にどうすれば良いのでしょうか。

僕が考える答えは以下の3つです。

他人と比較しない

最強になる

他人と比較しても自分の世界の中で最強になる

一つ目の「他人と比較しない」とは、会ったこともない赤の他人に嫉妬するのはやめて、自分の幸せを見つけることです。生まれも境遇も全く違う赤の他人の華やかな生活に嫉妬し、自己肯定感を下げることに意味はありません。勝手に覗いて勝手に落ち込んでいるんですから、ただの自滅行為です。身近な人と比べるのもいけません。友人であっても他人は他人。比べるべきではありません。自分は今のままでも楽しく生きられるんだと、自分の生き方を肯定してあげることです。別に富豪にならなくてもいい、高いディナーに通わなくてもいい、高級ホテルに泊まらなくてもいい。自分には自分の幸せがあり、それは他人に評価されるものじゃない。そう考えるのも立派な生き方の一つです。

二つ目の「最強になる」は「他人と比較しない」と真逆の生き方です。誰であっても出会う人・目に入る人すべての人と比較して誰にも負けない自分を目指す、という薔薇の道をいく方法です。自分の人生が惨めで貧乏で情けないのは、すべて自分のせいだと認め、自分が正しく努力をすればいつか勝てると、克己心を持って己を奮い立たせる生き方です。当然エネルギーを使いますし、上手くいかなかった場合さらにコンプレックスに悩まされる恐れもあります。僕はこの「最強になる」という考えのもと生活していますが、決しておすすめはしません。意思が強く、自責思考ができる人は選んでみるのもありだと思っています。

三つ目の「他人と比較しても自分の世界の中で最強になる」は、一つ目と二つ目を足した考え方です。ただ比較の対象は目の届く範囲全てではなく、友人、会社など限られた世界限定です。その中で最強を目指すということです。具体的に説明すると、友人の中で誰よりも筋トレを頑張るとか、会社の部署で営業成績TOP3に入るとか。競争には参加しますが、少し頑張れば達成できそうな対象だけにし、達成のたびに自己肯定感を高め、毎日の充実度を上げていく生き方です。どうしても誰かと比較してしまう人はまず小さなコミュニティの中で最強を目指し、それから少しずつコミュニティの枠を大きくしていくのも手だと思います。

詰まるところ、迫りくる格差社会を前に僕たちが決めなくてはいけないことは自分の生き方です。もっと言えば自己肯定感の最低ラインです。自分の存在を肯定することができれば、幸せに生きることができます。お金の多い少ないは関係ありません。自己肯定感の最低ラインを決めるのです。目に入る人全てに優越感を感じられないと幸せと思えないのか、自分の中でベストを尽せれば幸せだと感じられるのか。人それぞれ選択肢はあります。自分は生きている、生きている意味があるんだと定期的に実感できるラインを設けておけば、無闇に他人に嫉妬することはなくなるんじゃないかと僕は考えています。

このnoteのサムネイルに使ったこの赤地に黄色い丸が3つのロゴを皆さんはご存知でしょうか。

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これはデンマークの首都コペンハーゲンにあるデンマーク唯一の自治区「クリスチャニア」の”国旗”です。クリスチャニアにはデンマークの法律は適用されず、無法地帯となっています。

無法地帯と聞くと荒れ果てた街を思い浮かべる方も多いかと思いますが、クリスチャニアはその逆です。この自治区の別名が「地上最後の楽園」という事実もこの地の平和さを物語っています。ヒッピーが多く住むクリスチャニアには「暴力禁止、自動車禁止、ハードドラッグ禁止」の3つの基本的なルールしかありません。しかし中の住人たちは自由に楽しく暮らしています。

僕は2018年にこの地を1人で訪れました。最初は恐る恐る足を踏み入れましたが、無法地帯とは思えない幸せな雰囲気に包まれた街にすぐに魅了されました。湖畔で読書をする人、絵を描いている人。現代文明と完全に拒絶されているわけではないですが、僕の目にはここに生きる人たちは自分の幸せを自分で1番理解しているように見えました。

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迫りくる格差社会を前に、僕たちは生き方の決断を迫られています。自由には責任が伴います。成功も失敗も全て自分の責任だと受け入れることができて初めて自分の人生が始まります。完全な平等など存在しません。平凡な家庭で育った人は裕福な家庭で育った人を妬むかもしれませんが、そもそも親もなく家もなく明日の食料さえ不安定な環境で育った人はあなたを羨むでしょう。しかし家がない彼でさえ、発展途上国で伝染病で死に至る恐怖と戦いながらゴミを集めて暮らす少年からすれば恵まれています。完全な平等などありえないのです。ありえないからこそ、自分の人生、ここからここまで自分の責任で生きると覚悟を決める必要があるのです。

あなたはどんな生き方を選びますか。

それでは素敵な1日を。



最強になるために生きています。大学4年生です。年間400万PVのブログからnoteに移行しました。InstagramもTwitterも毎日更新中!