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金沢八景の当時の様子と良港としての六浦港

県立金沢文庫の学芸課長の話がちょー面白かったんでまとめました。

金沢八景、江戸時代までは湾が称名寺から文庫駅近くまで広がっていて、鎌倉時代は重要港だったそうです。
ご存知の通り利根川が東京湾に流れていたので、利根川の水路を使って、関東平野全域のものが六浦に陸揚げされて、鎌倉に向かったため。また、膨れ上がった鎌倉の人口問題を解決するため、当時開いた北条実時は、大船と江ノ島に加えて、ここも衛星投資にしようとしたそうです。そのとき、杭州の西湖に似せて宣伝したそうな。六浦の港が当時は天然の良港、そして宋代の貿易船が来ていて、13世紀初めは南宋、都は南京ですが、杭州も蘇州もすぐそばなので、貿易していたわけです。

そして景徳鎮以降盛んになっていた青磁が県立金沢文庫にはたくさんあります。そこで朝投降した猫の話に繋がります。船にネズミが繁殖するのを防ぐために猫を船に乗せていたそうで、南宋から来た猫が金沢八景に住み着いたそうな。

江戸時代になると、能見台のほうから湾を見ながら、景勝地を八カ所まわり、瀬戸神社の近くの宿でゆっくりしながら、潮の満ち引きの変化を楽しんだそうな。もしそこに小島があってお城があれば、まさにモン・サン・ミシェルの日本版です(惜しい。

これだけの景勝地だったのですが、明治時代に横須賀に日本最大の軍港ができると三浦半島全体が写真・絵画全面禁止、地図も非公開で、観光できるところじゃなくなったそうです。もし伊藤博文が暗殺されなかったら、明治記念館を八景に持ってくるという話もあったそうですが。

実は松島も結構遠浅なので、地震で隆起しちゃったりするとすぐ陸地になるそうです。それで陸地になっちゃったのが象潟だそうで。

また、国宝が県立金沢文庫に何と22000点!!。まあ、ほとんど書ですが。それでも鎌倉時代の坊さんがお今日のカンニングペーパーに持っていた漢字カタカナ混じりの手帳はかなりの貴重な書物だったです。秀吉や家康(多分信長)の直筆の書もあります。

文庫の称名寺の近くには沢山の寺がありしかも複数の宗派があるのですが、昔は寺は生活インフラを提供していて、なによりも先ず、金融業をしていたそうです。なるほどと思ったのは、神仏から借りた金を返さないわけにいかないので、割とデフォルト率が低かったとか。富岡八幡宮の家内安全札を考えるとちょっと...ですがw。

吉田兼好といえば吉田神社に住んでいた京都の人というふうに思い込んでいたのですが、実は吉田神社の家系より一段下で、金沢北条氏に仕えて伊勢や金沢八景に住んでいたのではという研究があるそうです。

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