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旅の記憶(旅行記)

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これまでの一人海外旅のエッセイです。実際の旅の順とは関係なく、基本的に一話読み切り。今は2005年のオーストラリア一周の旅を時系列で書いています。(古い情報も含まれますので実際に…
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#紀行文

【旅の記憶】メルボルンの台所(Melbourne 4)

昨夜早く寝たので、たっぷり睡眠をとって起きる。 朝食付きなので当然という感じで共同キッチンに向かうと、驚いたことに誰もいない。 そんなに朝早いわけでもないのに、まだ他の宿泊客は寝ているのだろうかと訝りながら、冷蔵庫を開ける。 ミルクもオレンジジュースも新しい物に変えられた気配はなかった。 ひと月前のミルクをシリアルにかける気は起こらず、食パンをトースターに入れる。パンも一体いつのものか見当もつかなかったが、何とかジャムを塗って食べた。 紅茶カップを棚から取り出して紅茶を入れる

【旅の記憶】無言のゲストルーム(Melbourne 3)

インフォメーションセンターの前はちょっとした広場になっていて、そこには場違いに沢山のレーシングカーが停められていた。 私が滞在していた期間は、実は世界的に有名なF1レースが行われる期間だったのだ。だからおそらくいつもにも増して、観光客が押し寄せているのだろう。 私はその広場に面したカフェでクリームのたっぷり入ったアイスコーヒーを飲むと、再びランチを食べたフードコートに引き返して夕食代わりの一本二ドルの巻き寿司を買い、トラムに乗って宿へと戻ることにした。 旅の高揚感で疲労はあま

【旅の記憶】スワンストンストリートを北へ(Melbourne 2)

新しい街に着いたら、すぐにでもうろうろ歩き回りたくなるのだが、それにはまず腹ごしらえをしなければならない。 この日の私は、列車の中で食べ残しの雑穀クッキーを食べただけだった。 私は街のど真ん中を南北に走るメインストリート、スワンストンストリートの適当な場所でトラムを降りて、 フードコートがあるというビルへ向かうべく東へ折れてコリンズストリートに入った。 このコリンズストリートの東側は、パリの街並みを思わせるということで、通称パリスエンドと呼ばれている。 確かにヨーロッパ風の建

【旅の記憶】曇り空の街、メルボルン(Melbourne 1)

メルボルンの第一印象。どんより曇った、高層ビルが多い街。 車窓から見たビクトリア州の州都は、期待に反しあまり華やかな印象を与えてくれなかった。 この広いオーストラリア大陸で、最も憧れていた都市。 私はシティーの西の外れにあるスペンサーストリート駅で夜行列車を降り、 宿泊予定のB&Bがあるサウスヤラ地区まで電車を乗り継がなくてはならなかった。 スペンサーストリート駅は大きな長距離列車ターミナルで、私の預けていた荷物は危うくどこかに選び去られようとしていた。 「持ち主の現れない

【旅の記憶】長めの助走(Sydney 4)

しばらくの間、私はその小さな町でスーパーでの買い物方法を覚えたり、 教会や図書館を覗いたり、クッカバラ(ワライカワセミ)を目撃したり、 ペンキ塗りを手伝ったり、はっきり言ってぶらぶらしていた。 時にはオーナーを訪ねてくる友人たちや、同時期に宿泊していた日本人の方 たちと夕食を共にさせてもらったり、 ケーキやコーヒーをご馳走になったりもした。 (輝かしいピーカンナッツのケーキのことを、私は忘れないだろう。  遠くなればなるほど、記憶が美しく改ざんされるとしても、だ) それま

【旅の記憶】光り輝く3人組(Sydney 3)

私が旅の最初にお世話になったのは、シドニーの北、セントラルコーストと呼ばれるエリアにある一軒家であった。 そこに週単位でリーズナブルに宿泊できるB&Bのような場所があったのを、webで見つけて、約3週間予約してあったのだ。 (残念ながら今はもうクローズされている) 日本人の方がオーナーだったのも、ここに決めたポイントで、いきなり海外初一人旅でオーストラリア大陸を一周しようという暴挙の、 その「暴挙感」を少しでも和らげるため、ここでしばらく生活に慣れさせてもらおうと思ってのこ

【旅の記憶】待ち合わせは空港のマクドナルド(Sydney 2)

シドニーに到着すると、当然最初の関門、入国審査(イミグレーション)が待っている。 以前の【旅の記憶】でも書いたが、私はイミグレーション恐怖症である。 (オーストラリアやヨーロッパのイミグレーションについて書いた以前の記事はこちら ↓ ) 語学ができればそんなに恐れることはないのだろうけど、毎度びくびくのイミグレーション。 それをどうにかクリアしたら、今度は前出の送迎車のドライバーと落ち合わなければならない。 落ち合う場所は「空港内のマクド前」という、梅田で友人と会うような

【旅の記憶】いきなりのオーバーブッキング(Sydney 1)

「ご搭乗の便にオーバーブッキングが出ております。  こちらで一泊分のホテルをご用意いたしますので  明日の便に振り替えていただくことは可能でしょうか。」 私はその日、知り合いの誰一人いないオーストラリアへ3ヵ月の一人旅に出る高揚と不安に包まれて関空にいた。 私は旅慣れているとはまったく言えない身で(それは今も同じだ)、 カウンターの女性のきびきびした言葉の意味するところが、まずもってよくわからなかった。 オーバーブッキングなるものが存在することは知っていたが、 それが私の

【旅の記憶 オーストラリア編】89通りの長い一日(prologue)

その日、私はシドニー近郊の町にある一軒家のダイニングで、 空から降ってくるものを唖然として見ていた。 それらは大きいものでは大人の拳大の大きさがあり、不透明な白い色をしていた。 目の前の中庭は芝生に覆われていたが、あっという間にそれらに覆いつくされ、緑色だった地面は白一色に変わった。 それは私が3ヵ月のオーストラリア一周一人旅をスタートさせて2日目の夕方に起きた、突然の雹の襲来だった。 さすがに地元でも滅多にない現象だったようで、翌日の新聞にはこのことが一面に写真入りで掲載

【旅の記憶】ミケランジェロの筋肉

ウフィッツィ美術館の話は以前に書いたのだけど、フィレンツェでは他にも美術館を訪れている。 アカデミア美術館へはクリスマス・イヴの朝に出かけた。 ここは泊まっていた場所からドゥオーモ方面へ向かう途中で毎日のように横を通っていた。 ウフィッツィに比べるとずっとこぢんまりとして外観もさして特徴がなく、 最初は横を通っても何の建物かわからなかったぐらいだ。 こちらの目玉、というよりフィレンツェの目玉と言ってもいいが、は何と言ってもダヴィデ像。 市庁舎前のダヴィデ、町を見渡せる高台、

【旅の記憶】OK、セニョリータ

【旅の記憶】は前回までサン・ジミニャーノの話を4回に分けて書いたのであったが、 ポッジボンシで乗り換えた、スピード出し過ぎバスを降りた後の話も少しだけ。 バスを降りて、すでに日の暮れたフィレンツェの中心にあるレプッブリカ(共和国)広場を目指して歩いていると、 突然ものすごい数の夜店風のお土産屋がずらりと並んでいる、人だらけの通りに出た。 まるでアジアの都市に迷い込んだようで大層驚く。 こんなところはフィレンツェに来て一度も通りかかっていない。 一体どこだろうと、頭の中に地図

【旅の記憶】行きと帰りのバスの落差よ(旅のなかの旅 サン・ジミニャーノ④)

町にもう一つある主要な教会、サンタゴスティーノ教会は長いお昼休憩に入っていたので、15時に再びオープンするまでサン・マッテオ通りをうろついて待つ。 お土産屋をひやかしたりしていたが、やはり朝から閉まっている店は閉まったままなので、 どうやら今はクリスマス休暇なのだろう。 残念だったのは「世界一美味しいジェラート屋」に選ばれたことのあるアイスクリーム屋まで閉まっていたこと。 世界一のアイスがここサン・ジミニャーノに、目の前にあるというのに、 と食いしん坊の私としては塔にのぼれな

【旅の記憶】散策からのマルゲリータ(旅のなかの旅 サン・ジミニャーノ③)

町、と言っても20分も歩けば反対側に着いてしまいそうなこの世界文化遺産サン・ジミニャーノ歴史地区は、 そもそもエトルリア起源の町の一つであるらしい。 街道の合流地点にあったお陰で町は発展した。 この町を特徴づけている塔は、そんな発展の中、富の象徴として競って建てられたもので、現在では14本が残っている。 私は観ていないのだが、1972年の映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』が撮影された場所としても有名なのだそうだ。 門をくぐると緩やかな坂道、サン・ジョヴァンニ通りが町の

【旅の記憶】バスはまだか@ポッジボンシ(旅のなかの旅 サン・ジミニャーノ②)

バスは有名な橋であるポンテ・ベッキオの三つ西側のヴェスプッチ橋を渡り、市街地を南下していく。 じきに車窓にローマ門という、こちらも有名な建造物が。 この三、四階建ての建物ほどの高さのあるローマ門、フィレンツェ市街地の南の端でピッティ宮に続くボーボリ庭園と隣接しているのだが、 少し街中から離れているようだったので、車窓から眺められたのはとてもラッキーだった。 実はこれも後からわかったのだが、ここはダン・ブラウンの小説『インフェルノ』でえらくクローズアップされている古い城壁跡。