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歌集評・一首評・その他書評

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歌集評や同人誌などの一首評、小説の書評です。
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#歌集

【書評】『クジラを連れて』大引幾子歌集(公開記事)

「ひかりの洪水」の向こうで 海蛇座碧空の裏に飼いいたり時に銀灰の鱗光らせ 便箋の静脈透けて舞い落ちる間も底知れぬ夜への投函 大引幾子さんの第一歌集『クジラを連れて』。 穏やかなブルーの表紙を開くと、まず目に留まるのは童話の世界も思わせる詩情豊かな歌だ。 真昼の海蛇座が空の裏側で鱗を光らせる様子。暗いポストの内部を想像させる「夜への投函」という結句。 いずれも作者の美意識が強く出ており、ぐっと惹きつけられる。 はつ夏のひかりの底に子を抱けば吾子は雫のごとき果実よ 三歳

【書評】『風を待つ日の』野田かおり歌集

肌寒き春の空気を逃しつつレターパックに課題を詰める コロナ禍の定時制高校。休校が続いている。 教員をしている主体が生徒たちの家へ課題を郵送するところだろう。 春の空気を逃す、という言い回しに、主体自身のやるせなさが滲むようだ。 この歌集は、コロナ禍の教員生活を明確に詠っている。 ほのほのと運ばれてゆく福祉科の春の準備のマネキン一体 ゆゆゆゆとひとの集まる職場ゆゑ在宅勤務選びて帰る 午後九時をはじまりとして円になり部員四名ラケットを振る 教員生活が描かれる歌を挙げたが

【書評】『初恋』染野太朗歌集

悲しみはひかりのやうに降りをれど会いたし夏を生きるあなたに この歌集を最初に読んでからしばらくが経った。 そう、しばらくが経ったのだが、この歌集に溢れる恋心と夏のイメージが去らない。 むしろ、光は反射し、重なり、より強くなる。 帯の表に挙げられたこの歌に、そのエッセンスは凝縮されている。 「たったひとつの(過ぎた)恋」(いや、主体の中では完全には過ぎていない)、そのワンテーマが一冊を貫く。潔い歌集だと思う。 きみがまたその人を言ふとりかへしのつかないほどのやさしい声で

【書評】『日々に木々ときどき風が吹いてきて』川上まなみ歌集

まず街の静かなことを書いてゆく日記始めの夜やわらかく 歌集の巻頭歌。日記始めであると共に、歌集のオープニングでもある。 「夜がやわらかい」という捉え方が作者自身の柔軟性をも表すようだ。 これから始まる一冊の、その全体のトーンを表現するような一首で、冒頭の歌としてとても素敵だと思う。 この歌集は、教師として働く職場詠や、恋人との関係性が表れる歌、家族の歌など、等身大の生活を静かなトーンで詠う。 身の回りのことや、細かな動作、なかなか捕らえられない何気ない心の動きを描写する歌

【書評】『cineres』真中朋久歌集

来し方も行く末もあるはおそろしく泡だちて寄せる水を見てゐつ 過去も未来もあることが怖いという。 主体は何に怯えているのだろうか。 過去がたくさんあるということは、歳を重ねて責任など重いものを 抱えて生きていくということにもなるだろう。 未来はどうか。行く末があることは明るいことのように思える。 でも、この先どうなるかなどわからない。 わからないのが恐ろしいのかもしれない。 泡立って寄せる水は、海かもしれないし、もっと小さな流れかもしれない。 ただそれをじっと見つめている主体

【書評】『やさしいぴあの』嶋田さくらこ歌集

瑞々しく、時にちょっと意地悪。 無敵のようであり、とても弱々しい瞬間もある。 そんな相聞歌で、この歌集は軽やかに幕を開ける。 くちびるに押し込むチョコの一粒がくれる甘さで生き延びている 日曜のまひるあなたを思うとき洗濯ものもたためなくなる 暗闇でわたしに触れた人の眼に卵を孵す静けさがある かきつばたすみれやまふじれんげそう 夏が始まる前に触れたい チョコの一粒は恋の味である。 甘くてビターで小さく愛らしい。 その一粒を口に押し込み、その甘さで今日を生き延びるという。

【書評】『シアンクレール今はなく』川俣水雪歌集

立看もビラさえもなきキャンパスに仔羊の群れ飼われ飼われて この歌集はⅠ章とⅡ章で詠われ方がかなり異なっている。 特にⅠ章は固有名詞も多く、学生運動の時代に生きた実在の人物に強くシンパシーを感じる作者が色濃く出ていることもあり、 詠まれているその時代のことを知らないと、読みにくい部分もある。 私もまさに当時を知らない世代なので、いろいろと調べながら読んだ。 上記の一首は、しかし、もうそうした時代からは遠ざかってしまって、 大学のキャンパスには闘うことをしなくなった学生たちが

【書評】『黒い光 二〇一五年パリ同時多発テロ事件・その後』松本実穂歌集

歌集の副題が示すとおり、本書は当時リヨンに在住していた著者が、 事件の渦中のフランス、そしてその後を見つめ、思索し、歌として形にした歌集である。 歌集と書いたが、本書は歌と共にモノクロ写真が多数掲載されている。 どちらが主でどちらが従というものではなく、相互に影響し合い読者を強く惹きこむ。 二つの表現方法を持つ著者ならではの、個性的な歌集だと思う。 自爆テロはいまkamikazeと呼ばれをり若く死にゆくことのみ似たる 劇場の惨状伝ふる中継の声に重なるイマジンの歌 シナゴ

【書評】『weathercocks』廣野翔一歌集

生きている人と俄かにすれ違う花冷えていくクロスロードに 花束を分けて花束を持ち帰る夜道に掲げながら歩いた 冬の夜に遭えば驚く大男として真冬の夜をとぼとぼ歩く 様々な街で、言葉すくなに歩く主体が印象的な歌集だ。 卒業や就職に伴い幾つかの街で過ごした日々が、内省的な語り口で綴られている。 その中で主体は歩き続け、考え続けている人のように私には映った。 一首目。自分ももちろん生きているのだけれど、 誰もいないと思っていた通りで急に誰かと擦れ違ったことを、「生きている人とすれ

【書評】『にず』田宮智美歌集

2020年に刊行された歌集を再読した。 東日本大震災に大きな影響を受けた作者。いくら時間が経とうとも、そのことは生活に、そして作者自身の心に、様々な形で影響を与え続ける。 「たすけて」と言えれば会えたかもしれぬ夜に一人で過ごす避難所 自己紹介の十分後には震災のよもやま話に移る合コン そのままにしておく白い壁紙のひび割れ 時にそっと触れおり 四年ぶりに職安に来つ被災者か否かを分ける欄できており 「津波にも遭っていないし住む場所も家族もなくしていないんでしょう?」 履