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しかし、大江健三郎全小説集は字が小さい

読もう読もうと思って、ずっと前から積ん読してはあった大江健三郎全集の一巻をようやく読み始めた。

前にも書いたが、自分は好きな作家の全集を、紙の本で頭から読んでいくのが好きで、そしてこれまで、いろいろな全集を読んできた。

全集には、その作家の代表作だけではなく、下書きから、日記や、メモ書き、備忘録、エッセイのようなものも入っている。中には、落書きのような下手くそな絵も。

そして、読み通していくとわかる。どんな凄い作家でも、下手くそな絵すらもご愛敬と言えるような、駄作が結構あるということ、それも結構な割合で。

そして、誰もが知る名作、傑作の類いというのは、ほんと奇跡のような確率でしか存在しないということも。

しかし、その事実は、自分のような三文文士の気持ちをどこかほっとさせる。そう書くものべてが、傑作でなくていいのだ。と。野球で言えば、三割打者なら十分合格点だと。

そして、その傑作と言われる作品も、過去の失敗作の焼き直しや、多くの実験の果ての積み重ねの上に出来上がっていたりする。

つまり、傑作という果実は、多くの駄作、失敗作という屍の上に実ったものなのだ。そして、その屍もただの屍ではなく、注意深く丁寧に読んでいくと、その後の傑作に繋がっていく試行錯誤や文体実験や、作者のもがき苦しみの経過を読み取ることができる。その思考の跡を追うのもまた楽しい。そして、より名作を深く読むことができる。

こうして、長い時間をかけて、ある作家の全集を一通り読み終えると、妙な達成感と、まるで他人の人生を丸ごと生きたような爽快感がある。

そして、どれだけ好きな作家でも、これまで少し気になっていた欠点や、性格、足りないところ、気に入らないところも含めて、理解して受け入れられるようになる。それは、まるで長く付き合った連れ合いのようなものかもしれない。

この作家は、ああ、この歳の頃には、そんなことを悩んでいたんだ。迷走していたんだ。スランプだったんだ。ああ、だからあれだけ鼻高々だったんだと。そして、新聞や、テレビで、あんなことを言って炎上させた理由や、世を騒がせた背景もわかるし、許せるようになる。

ちなみに今は、吉本隆明全集(現在8巻目、全38巻)、小林秀雄全集(現在7巻目、全14巻)、夏目漱石全集(通読2回目、10巻目)、と言った感じで、併読している。

このレパートリーの中に、新たに大江健三郎大が加わった。

実は安部公房も好きなので、どちらの全集を先に加えるか迷ったが、最近大江さんが亡くなられた直後に、「大江健三郎 作家自身を語る」を読み返すことがあって、感銘を受けた箇所がいくつかあったので、大江健三郎全集の方を選んだ。
安部公房大先生の方は、しばし積ん読で・・・。

ちなみに、その感銘を受けたのは、こういう一文だった。

「戦後派の文学たち、大岡昇平さんや安部公房さんが作られたもの、私など世代がそれに続けて書いているもの、その文学の続きを生かしてもらいたい。その時、本当の新しい作家、しかも長持ちする小説家として活躍する道が開けてくるだろうと思います」(大江健三郎 作家自身を語る 新潮文庫)

きっと言いたかったのは、文学というのも先人達からの継承だと言うことだろう。
「精神のリレー」とまで言っては大げさだけど、本当に真剣に、覚悟を持って文学をやると決めた人は、各々がこのバトンを偉大な先人から受け取るべきだと思う。そして、受け取ったら全力で走り切り、次のランナーへ渡していかなくてはならない。

これは、文学に限ったことではなく、文化全般の継承とはそういうものかもしれない。

というわけで、数年掛けて大江健三郎全集を、一語一句噛みしめるように読んでいきたいと思っている。

ただ、最後に、これだけは言いたい。
「単行本は字が小さすぎる」。

“ 盆休み 蝉時雨の中 読書して ”








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