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ときどき無性に詩を書きたくなる

ときどき、無性に詩を書きたくなる。

それは、ふいに訪れる強烈な衝動である。ただし、若い頃ほど頻繁には起きなくなった。
ともかく、本当に突然に襲ってくる。

ちなみに、詩人になりたいとは強く思ったことはない。才能がないと言ってしまえばそれまでだが、過去の詩人の作品を読むと、とても彼らを超えられるような作品が書けるとは到底思えないからだ。それだけ、詩というのはちょっと特殊な能力が必要な気がする。

削って削って(神経も)、感覚を研ぎ澄ませて研ぎ澄ませて、一語一語を積み上げていく。さらには全体の調子を整えて、句読点一つで頭を悩ませる。・・・とても無理だ。

ヨーロッパでは、詩人という存在は、文学の世界においても別格の存在らしい。世間的に尊敬されているし、学問としての「詩学」すら存在する。

小説家のイメージがあるゲーテや、ヘッセなどの多くの文豪も詩を書き、彼らは詩人としても評価されている。

ただし、この日本において詩人というと、俳人や歌人に比べて、どこか地位が低い気がする。小説家と呼ばれる人も、詩を書いているのはあまり聞いたことがない(川上未映子さんは詩から入った方なので別枠)。

もちろん、谷川俊太郎さんとか、誰でも知っているようなメジャーな人もいるが、逆に小説を書いているイメージはない。

その理由の一つとして、この国では、詩としての形態よりも、歌の歌詞の方が馴染みがあり、発展してきた経緯ある気がする。

実際、日本の歌詞は、世界的にもかなりよく出来ていて、同時に高度らしい。
かつての洋楽の翻訳を読むと、とてもチープでそのほとんどが読んでいられない。ラップなんて、ほぼ悪口のような罵詈雑言でしかない。
日本のアイドル歌手の歌詞の方がよっぽど面白くて、気が利いている。

そういう意味で、日本の場合、純粋な言葉だけ表現する詩人と言うよりも、松本隆や、阿久悠、ユーミンや、尾崎豊といった音楽を伴った詩を書くひとこそが、日本で言う本当の詩人と言えるのかもしれない。

かつて、文芸評論家の吉本隆明さん(もちろん詩人でもある)が、日本の詩人を目指す人に、今でもお勧めする最適なテキストは、萩原朔太郎の「詩の原理」であるらしい。

それ知って以来、この本を何度も読み返している。そして、この本から詩というものを教わった気がする。

要約すると、芸術は主観的なものと、客観的なものに分けられる。主観とは現実にあり得ないイデアの世界を追い求めるエモーショナルなもの。その代表が「音楽」や「詩」。
逆に、客観的な側はつまりは分析であり観察である。
つまり「絵画」、または「小説」であると。

もともとは「詩」というジャンルは、音楽と深い親和性があるのだ。

時々私が詩を書きたくなるのは、小説の本質がどこか覚めていて客観的なものであるから、ずっとやっていると、認識の疲れというか、観察の疲れが溜まってくるからかもしれない。

だから、そんな疲れを吹き飛ばしたくて、つい叫びたくなる。たまらなく「歌いたくなるのだ」。変なたとえだが、詩とは私にとってカラオケのようなものかもしれない。

このNoteでも、叫びのような詩を書く人がいる。彼らは心から叫びたいのだと思う。歌いたいのだと思う。

そういう詩を書く人の気持ちがよくわかる。一見、ただの書き殴りのような詩に見えるものでも、その向こうに見える本質を見極めて、できるだけ正直にくみ取るようにしている。

ただし、それがそのまま芸術になりえるかというと、また別のハードルが存在する。

前述の「詩の原理」では、どんな詩でも、雑文でも、小説でも、たとえ新聞の広告文であっても、それが芸術的に価値があるかどうかは、「美」であって、そこからもたらされる「感動」であるとされている。

たとえ電車の中吊り広告だろうと、新聞のコピーライティングでも、WEB記事でも、芸術になりうるということだ。このことは、詩に限らず、このNoteで様々な文章を書きたいと思っている人には、勇気続けられるともに、ある種の芸術としての価値の目安になると思う。

とりあえず、いてもたってもいられずに、世の中に向けて何かを叫びたいをと思っている人は、一度ぜひ読んでみてください。

ではまた


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com