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ツイートとコピーライティングの相似性

ツイッターとかを見ていると、時々、天才かと思うような面白いツイートをしている人を見かけることがあります。

興味本位で真似しようとしても、とてもできそうになく、スタイルだけをまねてももどうしても気が抜けた、冴えない感じになってしまいます。もしくは、どこか鼻につくような。

かといって、政治、経済、社会情勢についての話題を、正面からツイートできる見識も知識もないので、ツイートする勇気もありません。それに、反論されたらおろおろするでしょう。

その昔、ツイートの文字数は限られていて、その時は文章力というよりも、どこか瞬発力が勝負のような世界でした。しっかり文章を読みたいと言う人はブログへどうぞといった感じでした。

今では、ブログ自体が下火になってきて、反面、ツイートの文字制限数が多くなってくると、ツイート自体どこかブログに近い、考えさせられる内容も多くなってきました。ただし、読むのも大変にはなってきていますが。

それでも、相変わらず面白いというか、ツイッターの本質を理解して、ツイッターの面白さを最大限活かしているのは、コピーライターを始めとする、元広告業界出身の方々だと思っています。その代表が糸井重里さんや、田中泰延さんでしょう。

彼らのツイートを読まさせてもらって、時には笑いながら、時には感心しながら、やはありとても真似できないと思ってしまいます。

誇張でもなんでもなく、時々、これは新しい文芸の形かもしれないとすら思います。そして、消えていってしまうのが、どこかもったいないような気が。

改めて考えてみると、そこには、ツイッターというツールとコピーライトの相性の良さがあるのかもしれません。短い文で人を惹きつけ、時には面白がらせる、そして、拡散させる。

反面、小説家のツイートはどこか面白くありません。直接の宣伝か、真面目か、変な独り言か、その全てばかりです。やはり、小説家はある量の文章で勝負するだけあって、ツイートとは根本的に相性が悪いのでしょう。

たぶんその原因の一つに、文章を残そうという意識が強いのかもしれません。こういっては語弊があるかもしれませんが、ツイートがうまい人ほど、自分のツイートにはこだわりがなく、それどころか泡のように消えていってしまうのことを、ある意味覚悟しているような、同時にそれを楽しんでいるような。

そういう意味で、小説家は、文章に対してけち臭いのかもしれません。それが、広告業界と文学界、現実のお金の流れを如実に表わしているのかもしれません。

しかし、今後ツイッターの文字数制限が増えていけば、小説家の出番があるかもしれません。だとしても、ツイッターと広告の相性がいいするならば、小説家が自作の広告したいならば、ツイッターはやはり最適でしょう。小説の世界を垣間見る。こんなツイートをする作者なら読んでみたいなと思わせたら最高です。

と言いながらも、間の抜けたツイートしかできない自分が、今度、うまくなる気がまったくしないのですが、うまくなる努力は最低限しようかなとは思っています。

ではまた


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com