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小説家として食べていく

今、日本で専業小説家として食べられている人は、20人足らずと言われています。もちろん、タレント業や、エッセイ、大学教授などの副業を入れればもっと多くなるかもしれませんが、おそらく100人以上にはならないでしょう。

こうなると、小説家という職業は、最低職業ランキング入りどころか、そもそも職業ですらないかもしれません。
反面、文芸誌の公募は盛況で、小説家の志望者は減るどころかかえって増えているぐらいです。

もちろん、本業があって趣味として小説を書くのは、それはそれで楽しいことだとは思います。

しかし、やはり私を含めて、その多くの人は職業としての小説家になりたいと思って書き始めたと思います。

自分としては、小説家が職業として成り立つ成り立たないというよりも、詩人もそうですが、小説にしても、音楽家にしても、それを表現しないと生きられない人種に違いありません。

まさに、表現するためだけに生まれてきたのだと。つまり職業というよりも、生き方だという気がします。

だから、食えなくても、食えても、本当の小説家はやはり、死ぬまで書き続ける人だと思います。そして、私小説作家のように、己の生活を切り売りし、時には破滅する過程を売文にしたりする者もあれば、エンターテイメント溢れた物語を楽し気に作り続けられる者もいますが、両者とも小説家として生きられない人。「宿命」に選ばれた人だと思います。

宿命とは、選び取るものでも、あちこち探し回るものでもなく、それ以外に考えられない、若しくは他の道を選んでもいつの間にかそこに呼び戻されてしまう。天から与えられたある種の「呪い」です。

そして、宿命に逆らって、他の生き方を選んだ人は、たぶん一生どこか自分であって自分でないような、腰が落ち着かない異邦人のような気持ちを抱えて生きていくことになるでしょう。

ただし、いくら宿命であっても、食べられないという問題からは逃れられません。その宿命自体に疑いを抱き、時には宿命を与えた天を恨みかねません。

それは、音楽や絵画に人生をかけた人も同じだと思います。自分は音楽家として生まれた。ただし、世に認められない。この苦しみは、古今東西芸術家共通の思いかもしれません。

自分が、すごい絵描きだという確信がありながら、世の中ではまったく評価されない。そのジレンマは、ゴッホのように自分の耳をナイフで切り取るような暴挙として現れることがあります。

恐らく、誰しも真剣に何かを極めようと、人生を賭けたことがあれば、この暴挙、人によっては狂気としか思われない行動に、少しはシンパシーを感じたことがあるはずです。

「こんな素晴らしい作品なのに、なぜだ?なぜ、わからん」と、空に向けて叫びたくなるような、逆にそこまで、思い込んだものでないと人の心を打つ作品ではないと思います。まさに生死を賭けたような。

かつて、ロック歌手の忌野清志郎さんが、その著「ロックで独立する方法」の中で、多くの才能ある音楽仲間が、食えないからといって、バイトを始めるけれど、バイトに一生懸命になりすぎて、肝心な音楽を辞めていってしまう。と嘆いていました。

つまり、食うための仕事というのは、それだけお金だけではなく、心の安心をもたらす強烈な誘惑となるのでしょう。

だったら、働かなくていいかと言えば、そのままだと飢え死にしてしまう。その時、詩人や小説家、音楽家はいったいどうしたらいいか。その考えた果ての選択が、その後の作家人生に大きく影響を与えると思います。

結局、何か正業を持ちながら、表現の分野でも一流になる。それは、ひょっとして作家として食えなくて、飢え死にするよりも大変なことかもしれません。

自らが、揺るぎのない宿命を感じつつも、それで食べていけないとき、いかに生き延びるか。お金を稼ぎながら、作品の質をいかに落とさないか。それは、古くて新しい芸術家の永遠の課題だと思います。そこら辺のジレンマ、これから対処のやり方について、自分なりに考えたことを、今後noteで書いていこうと思います。

ではまた

夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com