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ペルソナ的世界【4】

【4】モーツァルトとシューベルトの垂直的邂逅─クオリアとペルソナ・続々


 茂木健一郎氏は『クオリアと人工意識』において、クオリアの働きは「情報の圧縮」にあると書いています。それはたとえば、文章・発話・楽曲における全体の「構想」や「姿」のようなものとしてとらえることができます。

「モーツァルトは、作曲の際、曲全体の有機的な構成を一つの「クオリア」として意識の中で把握し、それを作曲行為の中で「展開」していったのだろう。多くの情報を圧縮して意識にのぼらせることのできる「クオリア」の働きである。」


《発話や作曲におけるクオリアは、意識の中で必要性や文脈応じて「仮」のものとして生成されている。モーツァルトが作曲の端緒とした志向的クオリアもまた、音楽世界の多様性、可能性を表現する上での「仮説」として適切で役立つものだったからこそ、意識され、機能してものと考えられる。

 「仮」のものとして生成されたクオリアは、「志向的クオリア」(intentional qualia)として知覚される。そのように生成された志向的クオリアの中で、特に世界の把握という観点から役に立つものだけが、世界を把握する上でいわば「定番」の基盤をつくるといえる、「感覚的クオリア」(sensory qualia)のレパートリーとして残って行った可能性がある。

 つまり、世界を把握する上での基本的な「パーツ」として、いわば、世界をこのように整理してとらえたらよいのではないかという「仮説」として成立するのが「志向的クオリア」だと考えられる。その中で、重要なものとして進化における自然淘汰の「予選」を勝ち抜いて残っていったもの、つまりは、実際にそのような「部品」で世界をとらえると効率がよいと確認され、定着していったものが「感覚的クオリア」だと考えられるのである。

 例えば、今日私たちが視覚を通して外界を経験する時に主要な役割を果たしている「色」や「透明感」、「金属光沢」などの感覚的クオリアは、過去に世界を把握する上で有効な「仮」のものとして立ち上がった志向的クオリアのうち、進化の過程で厳選されていったものだと考えられる。同様に、聴覚においても、さまざまな「音色」のクオリアが、環境からの音刺激を整理する上で大切な役割を果たす感覚的クオリアとして残ってきたものと思われる。》(『クオリアと人工意識』第五章「意識に知性は必要か」)


 ここで、クオリアに関して論じられた事柄を、ペルソナをめぐる議論に“応用”します。

 ウィトゲンシュタインが、『哲学探究』で、「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私には感じられる。」(第2部270節)と書いています。このことをめぐって野矢茂樹氏は、ある言葉が「身につき、なじんだ道具がそうであるように、私の体の一部と化している」とき、それを身から引き剥がし、別の言葉で呼んだときに失われる「言葉にとってきわめて大きなもの」のことを、ウィトゲンシュタインは「言葉の魂」(第1部530節)と呼んだと指摘しています(『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』269頁)。

 つまり、「シューベルト」という固有名には「魂」がこもっている、というわけです。それは、ロレンスが言う厳存する実体・実在物としての「テオス」、すなわち“クオリア”に通じている、と私は解します。それも、マテリアルな界域に棲息する「感覚的クオリア」の、メタフィジカルな界域におけるその対応物である“ペルソナ”に。

 そうだとすると、先に引用した茂木氏の議論を拡張して、ペルソナの働きもまた「情報の圧縮」にある、と言うことができるでしょう。複雑微妙な“人格”情報の圧縮、あるいは長い時間にわたる“生涯”の圧縮としてのペルソナ[*]。


[*]クオリアによる情報圧縮の働きが「いま、ここ」に限定される(もしくは、「いま、ここ」を中心とする)としたら、ペルソナによるその働きは「過去・未来、そこ・あそこ(よそ)」に拡張されると私は考えている。また、情報圧縮は単なる置き換えではなく「創造性」をもった働きであり、おそらくペルソナにおいてそれはより強く発現するのではないかとも考えている。

 ベンヤミンが「言語一般および人間の言語について」第16段落において、「固有名は人間の音声という姿における神の語」であると述べたことをめぐって、細見和之氏は次のように論じている。


《…ベンヤミンの語っていることをストレートに受け取るならば、以下のようなことになるだろう。すなわち、その子どもをかけがえのない絶対的な存在として保証する固有名のなかには、さしあたり当の親にも知ることのできない運命、つまり神からのメッセージが書き込まれている。その固有名には神の語に由来する「創造的」な力がそなわっているのであって、その名前に書き込まれていた運命は、何らかの形で実現される。その意味において、親が子どもに名前を与えるとき、その親はたんに子どもを神に捧げているだけでなく、あくまで特定の名前とともにその子どもを神に差し出しているのであって、その固有名には、彼、彼女が与えながらも、当の彼、彼女には見とおしえない運命が刻まれている。とはいえ、その名前を与えたのはまさしくその親なのであり、またその運命を実現してゆくのはその子ども自身なのだから、その固有名は「人間が神の‘創造する’語と結ぶ共同性」にほかならないのである、と。》(『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』129頁)

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