見出し画像

(1)シェルブール行の列車

1986年夏の終わり、哲学者久重忠夫はフランスのノルマンディー地方にある古城に向けて日本を発った。古城の名はスリジー・ラ・サール城、そこでレヴィナスを招いてのシンポジュウムが開催される。テーマは「レヴィナス、倫理学と第一哲学」だった。
久重は、主催者であるJ・グルーシュ教授から招待状を受けての参加だった。

30代と40代の2年間ずつパリ大学に留学した。合わせて4年間過ごしたパリは、懐かしい故郷のような街だった。
パリは、哲学者としての自分を育ててくれた街でもあった。
数日間パリに滞在した後、チェルシー・ラ・スリジー駅からシェルブール行きの列車に乗った。途中、カーン駅、カランティイ・マリニィ駅で乗り換える。
パリを過ぎて森に入る。森を抜けると、刈り入れを終えた小麦畑がひろがる。
村の教会の尖塔が遠くに見える。小さな駅を通過する。スーツケースから取り出した原稿を読み始めた。
「受苦の倫理」

今回のシンボジウムで講演する、フランス語で書いた原稿だった。

時代は現象学のレヴィナスの時代に変わっていた。
「他者論」で倫理を展開するレヴィナスは世界から注目を浴びていた。
名も知らない町の駅に着いた。僅かな人の乗り降りが終わり、列車は動き始める。
揺れるコンパートメントのドアを開けて、若い女が入ってきた。

向かいの席に一組の老夫婦が座っている。
若い女は久重の隣に座った。席に着くと、本を片手に膝を組む。

本の表紙を盗み見た。
「シェルブールの雨傘」
20年前、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画は評判になった。
1945年に第二次世界大戦は終わる。

敗戦国のドイツや日本は全ての植民地を失った。しかし戦勝国フランスは、60年代になっても、帝国主義の時代を引きずっていた。植民地での民族独立運動は激しさを増す。
フランスは、独立運動を制圧するため、徴兵した若者を植民地に送り込んだ。
映画は、小さな町シェルブールに起きる、アルジェリア戦争の悲劇だった。
これから彼女はシェルブールの町に向かうのだろうか。雨傘屋の娘と同じように、彼女も恋のもつれに苦しんでいるのだろうか。
丸い膝を見せて、形の良い足がスカートの下から伸びている。
列車はスピードを上げる。揺れる。白い足も揺れる。

その足は素足だった。手入れの届いた素足が今の流行なのだろうか。パンプスを履いたパリの若い女性の足は、ほとんどが素足だった。
映画のシーンを思い出す。
ストッキングを穿いていると見せかけるために、素足のふくらはぎに、縫い目の線を引かせるシーンだった。
昔は、腰にガーターをつけて、ストッキングを穿いていた。
女は恋人にクレヨンを渡して、椅子の上に立つ。ハイヒールの踵からスカートの中に伸びる足。
クレヨンの黒い線は、足首、ふくらはぎ、膝の裏へとたどる。スカートの裾からスカートの中へと伸びていく。

視界の中で隣の女の足が揺れている。

魅入られそうになるのを、目をそらして車窓に移す。窓の外を見る。
遠く地平線に繋がる空の下で、牧場の羊が草を食んでいる。
ヨーロッパの平原は空が近い。目を上げると天上はすぐそこにある。
厚い雲間から光線が地上に降り注いでいる。その光の下を列車は突き進んでいく。

 続き(2)スリジー駅


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?