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「古事記(フルコトブミ)」は「振言文」だった?【覚え書き】


第1稿:2021/04/23


■ はじめに:「古事記」の読み方 ■

 「古事記」は一般に「コジキ」と読まれるが、これに対し本居宣長『古事記伝』において、当時の日本人が使っていた発音に即した「フルコトブミ」という読み方をすべきだと唱えたことを知っている人は少なくないと思う。

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 この説に従えば、「古事記」という漢字表記が与えられる前は『古事記』を表す言葉として「フルコトブミ」という言葉(音声)だけが存在したことになるはずだ。とすれば、「フルコトブミ」には「古い事の記」以外の意味があるのではないだろうか。

 以下では、『古事記』は「フルコトブミ」と発音されていたという本居の説に基づきながら、「古い事の記」ではない「フルコトブミ」の可能性を考えてみたい。

■ 神道用語の「フルヘ」■

 「古い」以外の「フル」がある。この可能性を考えたのは神道の文献に登場する「フルヘ」という言葉が原因だ。この手の文章を読んでいるとたまに、「布瑠部、由良由良止布瑠部(フルヘ、ユラユラトフルヘ)」と出てくることがある。かねてから「これってなんの意味があるのだろう」と心の底で疑問に思っていたのだが、先刻偶然『唯一神道名法要集』(吉田兼倶)(※)を読んでいてヒントになるものを見つけたので、書き留めておく。
(※大隅和雄『日本思想大系19 中世神道論』岩波書店、1977年より)

 そこには『先代旧事本紀』からの引用で、

天神ノ御祖、教詔して曰はク、「若し痛む処有らば、茲ノ十宝ヲして、一二三四五六七八九十ト謂ひて、布瑠部、由良由良止布瑠部、此ノ如ク之ヲ為セば、死人反テ生カン」と。是れ則ち所謂布留ノ言ノ本ナリ」(219頁、原文ママ)

という記述があった。「布瑠部、由良由良止布瑠部」と唱えると死人は生き返るのであり、これが「布留ノ言」のもととなっているという。

 この「布留ノ言(フルノコト)」については大隅氏の注釈に、「ゆり動かして霊力を振いたたせる呪術と呪文。」とある。つまりここで使われている「布留(フル)」とは「振る」なのだ。また念のため確認しておくが、「言(コト)」の方は「」である。

 「布留ノ言(フルノコト)」という言葉は、音声に注目すると「フルコトブミ」に通じる部分がある。


■「振言文」■

 「布留ノ言(フルノコト)」に対する大隅氏の解釈を参考にすれば、「フルコトブミ」に関して次のような仮説が立つのではないだろうか。

 「フルコトブミ」の「フル」は「振る」であり、「コト」は「言」である。
 つまり、「フルコトブミ」は「振言文」とも漢字表記することができる。

フルコトのコピー


 すなわち「フルコトブミ」の「フル」という言葉は、少なくとも漢字を与えられる前の段階としては「古い(old)」だけではなく、「振る(shake)」という意味も持っていたという可能性が成り立つのではないだろうかと考えられるのである。また「コト」という言葉に、「事(thing)」ではなく「言(word)」を当てることは可能性として十分考えられるだろう。
(「フミ」については漢字表記を考えるなら「」よりも「」が自然なので、ここでは後者を当てた)

 それでは「振言(フルコト)」とは何か。「フル」という言葉の意味に重点を当てて考えたい。

■「魂(タマ)」を「振る(フル)」■

 神道用語で「フル」に関連するものとして、「魂振り(タマフリ)」という言葉がある。國學院大學日本文化研究所編『〔縮刷版〕神道事典』(弘文堂、1999年)によれば、

「たまふり」は、「みたまふり」ともいい、衰弱した魂を、呪物や身体の振動によって励起すること。招魂とも表記する(391頁)。

とある。「魂振り(タマフリ)」では魂を振ることによって活性化させるのだ。これは先に登場した「布留ノ言(フルノコト)」に通じる考え方である。「振言(フルコト)」の「振(フル)」もまた同様に、「振ることで何かを活性化させる」いう意味で理解することができると思われる。

■「振言文」の意味 ■

 上述のように解釈した場合「振言文(フルコトブミ)」とは、何を意味するか。先ほどの大隅氏による「布留ノ言(フルノコト)」解釈に基づくならば、「振る(フル)言(コト)の文(フミ)」、つまり「ゆり動かすことによって霊力をふるい立たせる言葉の文章」と理解することができるのではないだろうか。
(「振る言の文」という字面だと、なんか告白を断るみたいな意味にも感じられるけど)

 あるいは「言(コト)を振る(フル)文(フミ)」、すなわち「言葉の精霊をゆり動かしてふるい立たせる文章」という意味でも取れるだろうか。

 いずれにせよ、「フルコトブミ」は振ることによって何かを活性化させるという意味を持つと思う。その何かに当たるのが、つまるところ「フルコトブミ」の神話的世界ではないだろうか。

■似たような見解も...■

 ちなみにネットでこの「振言文」という言葉を調べてみたところ、似たような言葉遣いを神道家の高良容像(日垣宮主)氏もされているようで、「振る言文」という神道講座を開いたり、『神道振言文』という著書を出したりされているそうだ(神道日垣の庭より)。

 氏としては「フルコトブミ」という読み方へのオマージュとしてでこのような漢字表記をされているように見受けられるが、これまでの議論を踏まえるとあながち原義に即しても「振言文」という漢字を当てるのはマチガイではないのではなかろうか。

■ おわりに:あんまり真に受けないでね ■

 最後に以上を要約しておくと、次の2点にまとめられるだろう。

①『古事記』に「古事記」という漢字表記が与えられる前は「フルコトブミ」という言葉があり、ここには「古い事の記」だけでない複数の意味が込められていた。 

②他の意味として、「振る(フル)言(コト)の文(フミ)」/「言(コト)を振る(フル)文(フミ)」が存在した。つまり、「フルコトブミ」は「振言文」でもあった。

 誤解しないでいただきたいが、筆者が提示した「振言文」という漢字表記は「古事記」という表記を排斥するものではない。本居が想定した古代語としての「フルコトブミ」が漢字を当てられる前に、この言葉に「古い事の記」に加えて「言を振る文」という意味が重層的に込められていた、という説を私は提示しているということをご理解いただきたい。聖典に対して一義的な解釈に止まらない多様な解釈を与えること、本稿における主眼はそこにある。

 さて、以上の考察は国文学にも神道用語にもそれほど熟知していない人間が勝手に立てた解釈なので、くれぐれも信じすぎないようにご注意願いたい。論文や研究書にはまだ当たっていないので、気が向いたら色々調べてまとめてみようと思う。




【追記】ところで、「フルヘ」って検索したら候補に「フルヘッヘッへ(P-MODELの楽曲)」って出てきたけど、平沢進の曲とかもタマフリの一種なんだろうか...考えてみるとそんな気もする(!?)


【補注】1つの言葉の意味を1つに限定してしまおうとするのは古代人の考え方に反する、という旨を折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究』において述べている。

事実、日本の古い言葉・文章の意味というものは、そう易々と釈けるものではなさそうだ。時代により、また場所によって、絶えず浮動し、漂流しているのである。しかるに、昔からその言葉には、一定の伝統的な解釈がついていて、後世の人は、それに無条件に従うているのである。私は、これほど無意義なことはないと考える(『古代研究Ⅲ 民俗学篇3』角川書店、2017年、165頁)。

こういうふうに、日本の古い文章では、表現は一つであっても、その表現の目的および効力は複数的で、同時に全体的なのである(同上、190頁)。

つまり、古代では1つの言葉に対して多様な意味を重層的に重ね合わせて言葉が理解されていたとされる。これはおそらく「フルコトブミ」に関しても同様であろう。「フルコトブミ」の意味は「古い事の記」だけではない。
 折口はこのような言語観を「古代」のものとしているが、それは時代に限定されたものではないはずだ。平安時代には、小野小町わが身よにふるながめせしまにの「ふる(古る/経る)」のような掛け言葉があるし、このような発想は時代に限定されているわけではないだろう。「掛け言葉的な想像力」とでも言おうか、そういった言語観は平安時代を経て現代までずっと日本語の中に流れ続けていると思う。

【補注】筆者としては先人が見つけていない事実を探究したいという気持ちもあったのだが、むしろ中世や近世が神話を解釈した方法を真似て、新しく「創造的誤読」としての「現代神話」のようなものを「見つけよう」という意図でこの文章を書いた部分がある。




※「こういう説や研究を知ってる」とか「ここは絶対間違っている」など、ご意見がありましたらコメントをいただけると幸いです。



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