【書録切書】 2022/01/30 「思想と国家」
その日に読んだり読み返した内容をまとめています。
ここまで親鸞を信奉する宗教家・文学者・思想家などが、昭和前期に急速に日本主義へと傾斜した過程をみてきた。彼らは親鸞の思想を捨てて、日本主義へと「転向」したのではない。親鸞の教えを追求するが故に、日本主義へと接続していったのである。
(275頁)
親鸞の研ぎ澄まされた思想と問いは、魅力的であるが故に危険性を伴う。自力へのラディカルな懐疑は、時に極端な自力の否定になり、自力への攻撃となる。権力に対する無力と無抵抗が状態化し、沈黙の共同体が現前する。しかも、構造的に国体論へと接続しやすい。危ない。
それでもなお親鸞思想は、私の人生の指針であり続ける。本書を書き上げた後でも、その点は揺らがない。
(288頁)
「他力本願」という言葉に象徴される親鸞の教えは自己否定を通じて個人の内面を深く掘り下げる偉大な思想なのだが、本書において中島氏はそれ故に批判精神を失い権力に追従する(=戦争協力する)という危険も孕んでいることを抉り出した。
浄土真宗と戦争協力については、『歎異抄』を世に広く知らしめた暁烏敏などが「本来の教えを逸脱した」存在(異安心?)として糾弾されていたが、氏によれば親鸞の教え自体が両者を結びつける潜在性をもっていたとされるのである。
〔なんと「極右」で知られる三井甲之や蓑田胸喜も親鸞に心酔していたという!〕
〔...おそらく若かりし頃に浄土真宗の影響を受けた折口信夫も、この問題とは無縁でないようだ〕
中島氏については折に触れて名前を見かけており少し著書もかじっていたのだが(『死者と霊性』や『アジア主義』)、ちょうど先週対談イベントがあって面白い話を色々伺えたこともあり、これから色々読みたいな〜と思っている。
なお注意しなければならないのは、引用した中島氏の態度にも示されている通り、決して親鸞の思想や浄土真宗が問題だと言っているわけではないということだ(危険ではありえたとしても、全ての優れた思想書と同じく)。戦争協力の問題についても、「悪い奴らが戦争を先導したのだという」考えではなく、「こんなに偉くて思慮深い人たちでも道を踏み外してしまったんだから自分たちはなおさら気をつけないといけない」という考えをもって歴史に向き合うべきだろう。というか、そもそも「戦争『責任』とは何か」っていうこと自体を問い直す必要がありそうだ(私自身が不勉強であるという意味も込めて)。
〔ここらへんについては、國分功一郎先生の「中動態」の発想が必要になってくるんじゃないかと思っている〕
■ 碧海寿広「第二章 大正の教養主義と生命主義」
(『近代日本宗教史 第3巻 教養と生命』春秋社、2020年) ■
教養主義も生命主義も、本質的に領域横断的な性格を備えており、それゆえにこそ、特定の宗教伝統の垣根を超えた、新たな宗教のあり方を創造できた。これら二つの主義の拡張によって、非宗教者が宗教について自由に語る場が広がり、また宗教者が自らの属する伝統から飛翔するのも容易になった。
だが、その領域横断性は、少なくとも昭和期の日本では、国家ないし民族という垣根を、超えられなかった。むしろ、宗派の違いや宗教と非宗教の分断を超えて、天皇制国家としての日本のもとに、大多数の人間を包摂する結果となった。
(64-65頁)
※教養主義:大正期から流行した、難解な本(岩波文庫とか)をたくさん読むことによって人格を陶冶すべきだという主義。
※生命主義:同じく大正期に「生命」を核として流行した、様々な思想や運動の潮流。個人の内面を超越した大いなる生命への目覚めを求める。