とある焼物師の【君たちはどう生きるか】考察
熊本県で小代焼という陶器制作に携わっております。
小代焼中平窯の西川と申します(^^)
つい昨日、
7月28日(金)の夜に宮﨑監督の『君たちはどう生きるか』を拝見しました。
映画館で一度見ただけですので、
以下の登場人物たちのセリフ等はうろ覚えでして、勢いで考察しました。
この映画、
実際に見てから考察を読んでください。
事前情報なしで見ることに大きな意味があるように思います。
ただ、不気味なシーンがありますので
幼稚園~小学生のお子様がいらっしゃる方は考えてから見た方が良い気もします(^^;
1つだけ言えることは、見終わった後に賛否は分かれますが、決して
最低評価を付けられるような駄作ではありません!
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一言まとめ
ファンタジー作品ではなく、
現実を直視させるためにアニメ技術を上手く使った作品であると思いました。
実写映画では出せない種類のリアリティーだったと言えましょう。
私は
「空想の世界に引きこもらずに、
ありのままの現実を受け入れた上で、どう生きていくかを考えなさい」
というメッセージを受け取りました。
鳥の糞
今回の映画で、個人的に一番心に残った演出です。
ジブリに限らず、動物が登場するアニメで「動物の糞」をあれだけリアルに描くことってレアだと思うんです。
実際に小鳥を飼ってみたり、鳥小屋へ行くと 鳥自体は可愛いんですが、
その下には驚くほど糞が溜まっていたりするんですよね。
しかし、学術的な資料でない限りアニメ・漫画・映画でその大量の糞って、意図的に見せないようにしますよね。
NHKの動物ドキュメンタリー番組でさえ、糞ばかりを映すことはないでしょう。
この、鳥の糞を多用していたことで
「あ、この映画は綺麗なものも汚いものも区別せずに、
現実世界をありのままに見せる意図があるんだ…。」
と感じました。
不思議な世界は理想の世界
眞人が夏子さんを探しに行った世界についてです。
この世界はペリカンとインコを除けば、
海や空や植物などなど世界そのものは美しいんです。
海底の岩が見えるほど澄んだ海、
雲間から光が差し込む情緒ある空、
青々とした草木、
波は激しいものの醜さは無く理想的な自然の風景です。
物語序盤で眞人が引っ越してきたお屋敷にも水辺、空、草原がありましたが、
ここまで美しいものではありませんでした。
また、この世界では食べ物もとても美味しそうです。
これぞジブリ飯!
現実世界で、使用人達と眞人が食べていたご飯は「本当に宮﨑作品なの?」というほど地味で不味そうでした。
眞人も「美味しくない」とはっきり言っています。
これらの情報から、この世界はありのままの現実ではなく
現実を意図的に編集して理想化された世界であると分かります。
しかし、
この世界の住人達(ペリカンとインコ)は映像から匂いを感じそうなほど生々しいのです。
世界が美しいほどに、そのアンバランスさが際立ちます。
この世界は
理想と現実のギャップを表現しているのだと感じました。
『ペリカンとインコの世界』
ペリカンとインコはこの世界の生きた住人達です。
他の住人達もいますが、
それは黒い人影(幻?死者?)であったり命になる前段階の姿(ワラワラ)であったり、リアルに生きている住人とはニュアンスが異なります。
そして、この生きた住人達であるペリカンとインコは誤解を恐れずに表現すると【醜い】のです。
ペリカンは野生の鳥の姿を保っていますが、年老いたペリカンは人の言葉をしゃべります。
年老いたペリカンの口から
「連れてこられたこの世界には魚がいないため、ワラワラ達(白くてフワフワしたやつ)を食べているのだ。」
という真実が語られます。
ペリカンは悪さをしたいわけではなく、生きるために仕方なく食っているのです。
そして、年老いて怪我をして、死んでいきます。
一方のインコはペリカンと比べると頭脳が発達していて道具を使い、社会性があります。
王様インコがいるため階級や国家がある様子。
これ、まさしく人間そのものでしょう?
このインコたちは頭脳と社会性の発達があるためか、
ペリカンよりも繁殖に成功し、膨大な数が暮らしています。
しかし、数が増えすぎていつでも空腹です。
描写はありませんが、腹が減って象さえ食ってしまうそうです。
『楽園』
飛び回る美しい野生(原始?)のインコを見て、
「ご先祖様ー!」とインコが言っています。
『ペリカンとインコの世界』
は元々はこのような『楽園』を創ろうとして 大おじ様が創った世界が、月日とともに思わぬ方向へ変化したんじゃないかと思いました。
そして、大おじ様は自身にとっての理想の世界を、記録(お手本?)として残しているのではないでしょうか?
その理想世界が
『ペリカンとインコの世界』と『大おじ様の世界』の中間に位置する、この『楽園』なんじゃないかと解釈しました。
『大おじ様の世界』
大おじ様、只一人だけがいる世界です。
大おじ様は基本的に下界へは行かない様子。
王様インコの様子から、タブーに触れるような重大事件でない限り、
ここは気安く来るような世界ではないことが分かります。
大おじ様は、下界へ行けばペリカンが魚がいなくて困っていること、
インコが増えすぎて何でもかんでも(象さえ)食べるようになっていることが分かるはずです。
そして、問題を直視すれば
『ペリカンとインコの世界』に食べ物や解決策を与えることができるでしょう。
ペリカンの問題は「魚さえいれば何とかなる」という単純なものです。
ペリカンを連れてきたように、魚を連れてくればいいんです。
博識な大おじ様であれば、
文明を築いていたインコへ、効率的な農業や酪農の知識を授けることもできたでしょう。
しかし、
大おじ様は『楽園』と『ペリカンとインコの世界』のギャップを埋めるための努力を何もしなかったんです。
理想がありながら、傍観者であり続けました。
映画では傍観さえしていない気もしますが…。
最初から最後まで傍観者であれば、それはそれで良いでしょう。
しかし、
ペリカンとインコを連れてきたにも関わらず放置した罪が、大おじ様にはあります。
大おじ様は独裁者
まず、大きな視点から。
大おじ様は特定の社会制度上に君臨する独裁者の比喩じゃないかと思いました。
大おじ様には思想があり、理想があり、決して人間性は悪くありません。
ただし、この世界を作った者としての責任を果たしていません。
『みな生まれながらに平等で、平和で、貧富の差がない社会』は理想的です。
その思想には美しささえあります。
しかし、
病人が出たらどうするか?
貯蓄をしたい民衆の存在をどうするか?
内戦が起きたらどうするか?
人々が働く気力を失ったらどうするか?
人口が増えた場合の食べ物やエネルギーの確保は?
飛び抜けた天才とそうでない者は平等に同じ職種か?
という現実的な問題を何も考えずに国を作ってしまうと、待っているのは内側からの崩壊です。
崩壊を防ぐには、
実際に起きる問題を直視して、一個一個の問題に個別に対応しなければいけません。
大おじ様は私達
次は小さな視点です。
同時に、大おじ様は私達ひとりひとりの比喩でもあると思います。
現実の問題を直視せず、自分にとって都合の良い空想の世界へ逃避しがちな人々。
つまり、私を含めた
ごくごく一般的な民衆の一人を表していると思います。
具体例は下記の
『夏子さんの変化』
『眞人の変化』
の章で書いていきます。
工芸界にあった実例
この章では一旦 映画を離れ、
現実世界で起きた実例をご紹介します。
『上賀茂民芸協団』
という思想家である柳宗悦氏を慕って集まった若者たちの共同体が、
柳氏の援助を受けたにも関わらず、わずか2年で崩壊してしまった事実があります。
この共同体の思想は美しく、柳氏は協団で制作することを
「正しさへの奉仕」「美への奉仕」「健康な生活」
と説きました。
…しかし、
共同体のメンバーである黒田辰秋氏は、
この「正しく美しい健康的な生活」を実践する過程で強度の神経衰弱となります。
一時期は再起不能と思われるほどに心を病みました。
(後に無事に回復されます。)
『柳氏の理想を意識してない、ごくごく普通の職人達』
ではなくて
『柳氏を慕って、理想を実践するために集まった志のある若者達』
でさえ短期間で解散したということがポイントです。
理想と現実のギャップを知る上で、分かりやすい実例の一つと言えましょう。
柳氏の思想は美しい理想世界ではあるものの、そこに生身の人間は存在しませんでした。
柳氏の理想世界には『君たちはどう生きるか』で言うところの
食べず、増えず、糞をしない鳥達しかいないのです。
具体的に書きますと
・有名になり沢山作品を売りたいという欲
・ひもじい思いをしたくないという感情
・現実的に生活していくための経済活動
が全く想定されていないんです。
柳氏に共感する作り手は、
美意識を一切持たない無学で無知で無個性な職人への羨望は無く、
濱田庄司氏や河井寛次郎氏という超一流作家を目指そうとする人々であることも、柳氏の理想世界の守備範囲外でした。
上記の感情や経済活動を望む者は別に極悪人ではありません。
私を含めた、ごくごく一般的な民衆が抱くであろう感情です。
その、当たり前の感情や経済活動を想定しなかったこと。
そして、
志高い若者の集団が短期間で崩壊したにも関わらず、崩壊した理由を
という短い答えのみで納得し、思想を実現可能なものへ修正しなかったことが、
私には大おじ様と被って見えました。
夏子さんの変化
夏子さんは、理想の世界を求めて、自分の意思で あっちの世界に行ったのだと解釈しました。
アオサギがきっかけになったとしても、夏子さんの深層心理で
「邪魔者がいない世界へ行きたい」という思いがあったのではと推測しています。
序盤で夏子さんと眞人は対面し、夏子さんは笑顔で積極的にコミュニケーションをとろうとします。
しかし、
疲れて眠る眞人を見る夏子さんの顔には先程までのような微笑みがありません。
嫌悪感まではありませんが、「自分の家族・自分の子供」を見る目つきではないように感じました。
夏子さんにとっての理想の世界は
眞人のいない、自分と自分の子供だけの世界だったのでしょう。
それは助けに来た眞人への「大っ嫌い!」というセリフに表れているのかなと。
しかしその直後、
必死の形相で助けに来た眞人に「夏子お母さん!」と呼ばれて、
夏子さんは全ての現実を、ありのままに受け入れる覚悟を決めたように見えました。
ラストで元の姿に戻ったインコ達が夏子さんを糞まみれにしていましたが、
夏子さんは糞に汚れることを全く気にせずにインコに対して心からの笑顔で「かわいい!」と言っていました。
これはインコ達が
食べること、
増えること、
糞をすること、
を考えずに現実を見なかった大おじ様と対照的だなぁと。
この糞をするインコへの「かわいい」は、
眞人がいるありのままの現実を受け入れて、
眞人を含めた家族4人で生きていくことを心から受け入れたということであると解釈しました
お父さんに言いたいこと
眞人の考察に入る前に、
お父さんにちょっと一言あります。
物語の序盤の出来事。
眞人の登校初日に、当時はさぞ高級品であったであろう自動車で、
眞人をこれ見よがしに学校へ送り届けるのです。
いやいや、ちょっと待ってください。
お父さん!
「あんなもん、同級生から目を付けられるに決まってるじゃん!!
あの初登校が許されるのはサラリーマン金太郎だけだよ…!」
と思いました 笑
詳しくは『サラリーマン金太郎』の1話~3話くらいをお読みください。
さて、次の章では真面目な考察に戻ります。
眞人の変化
夏子さんと同様に、眞人も物語序盤は現実を受け入れていませんでした。
序盤では夏子さんの呼び掛けを無視していたり、喧嘩の後に自分でわざと怪我をしたりしています。
眞人が新しい学校に馴染めない描写がありますが、これ、眞人側にも原因があると思うんです。
転校の挨拶の時に
「笑顔で挨拶する」
「緊張しているなら、それを正直に言う」
「仲良くしたい旨を伝える」
という言動をとっていれば、クラスに受け入れられたはずです。
全員とは仲良くなれないとしても、数人は友達もできたでしょう。
多くの同級生が共同で草刈りをする中、眞人だけが手伝わずにスタスタと帰っていきます。
いきなり集団で陰湿ないじめをされたわけじゃなくて、きっかけは
草刈りをせずに帰る眞人とそれに文句を言った子供の一騎打ちのように見えます。
(このシーンにセリフはありませんが、そのように見えました。)
「仕返しをしてやる!」と意気込むお父さんに対して眞人は「転んだだけだ。」と言います。
わざと怪我をした眞人の目的は『ただただ学校を休むこと』でした。
学校へ行き、
『決着がつくまで喧嘩する』
『話し合いをする』
『これからは共同作業を手伝う』
『共同作業を手伝えないならば理由を言う』
『学校へは行くが折り合いの悪い同級生とは距離をとる』
という現実問題を解決する全ての選択肢から逃げるのです。
序盤はコミュニケーションを取ろうとする夏子さんの問いかけに無言を貫きます。
心配して自分を探す夏子さんの呼びかけさえ、後ろを振り返り気付いたにも関わらず無視します。
あっちの世界へ行った後も夏子さんを
「お父さんが好きな人」
と表現し、自分の家族であるとは言いません。
夏子さんはお母さんの妹ですので、叔母さんと表現しても良さそうですが、
家族・親族という表現を頑なに使おうとしませんでした。
しかし、
あっちの世界で
頭の絆創膏が取れた時点で社会へ向き合うことを決めたのでしょう。
現実世界でも傷が治れば社会復帰(眞人の場合は登校)を意味します。
そして、
妊娠している夏子さんを「夏子お母さん!」と呼んだ瞬間に
夏子さんと新たに生まれる子供を初めて家族と認めました。
現実へ戻った眞人は現実世界の、
ありのままの社会、ありのままの家族を受け入れて
「自分がどう生きるか」を決めたのです。
君たちはどう生きるか
お父さん、夏子さん、眞人、新しい子供の4人は本当の家族として、
一緒に引っ越していきました。
傷が治った眞人は、学校(社会)へ復帰したことでしょう。
私はこのラストが
「空想の世界に引きこもらずに、
ありのままの現実を受け入れた上で、どう生きていくかを考えなさい」
というメッセージであると受け取りました。
2023年7月29日(土) 西川智成
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