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熊本県の伝統的工芸品【小代焼】 ~その作風と発祥を考察する~

小代焼中平窯の西川です!(^^)!

今回は、私が携わっております熊本県の伝統的工芸品、
小代焼の作風と発祥について深堀していきます。

※以前公式ホームページに書いた内容の加筆修正版です。




小代焼の概要


小代焼は福岡県の上野焼陶工(牝小路家と葛城家)が細川家の肥後入国に伴って小代山(現:小岱山)に移り住み、焼き始めたというのが通説です。


他の説が提唱されることもありますが、
現時点で最も証拠が残っており 有力とされるのは上記の
『上野焼陶工(牝小路家と葛城家)の移動によって小代焼が開始された』という説です。

私自身、2019年に細川家時代の上野焼窯跡を視察したのですが、窯跡からほんの数100mの地点が「かつらぎ」という地名だと知って感動した記憶があります。



小代焼の特徴として藁灰釉(もしくはイネ科の植物灰を使用した釉)と流し掛け技法の多用が挙げられます。

この特徴は江戸時代から現代までほとんど変わることなく受け継がれており、他産地と比べても変化が少なく 伝統的な手法を受け継いできた焼き物だと思います。



誤解の無いように書きますが、
「伝統を守ってた方がエラい!」とか
「革新を繰り返す方がスゴい!」とか
の良し悪しを言いたいわけではなく、そのような事実がある
ということです。


私の見解ですが、焼き物の技法・作風が変化することには以下の3つの要因が大きく働くように思います。




①生産規模と消費規模が大きいこと
②他産地との交流・他産地の技法を取り入れる気質がある
③藩主(当時の権力者や指導者)の好みの変化



瓶焼窯跡(かみやきがまあと)
現存する最古の小代焼窯跡です。



生産規模と消費規模が大きいこと


九州であれば、当時の都市部や海外へも輸出していた唐津焼が典型的な例かと思います。

単純に生産規模が大きければ それだけ陶工や窯の数も多く、多様な技法・製品が生まれやすい環境となります。

また、大規模生産・大規模消費の唐津焼は販売先の好みに合わせて目まぐるしく作風を変化させました。

私たちが唐津焼と聞いて想像する斑唐津、朝鮮唐津、絵唐津は小代焼が制作され始める時代にはすでに作られなくなっていました。

また、焼き締めの作品や天目形茶碗、織部好みの茶碗など多種多様な製品が生み出されています。
ちなみに古武雄(弓野焼)は比較的長く続けられたようです。


一方、小代焼は瀬上窯開始までは牝小路家・葛城家の一子相伝で 共同窯を1年交代で使用する程度の生産量でした。

江戸後期まではまとまった規模の卸売りをしておらず、表向きには民間への販売も行われていませんでした。

出土状況から見て、藩外への輸出もほとんど行っていません。
(仮にあったとしてもごく小規模)



他産地との交流・他産地の技法を取り入れる気質がある



小代焼の場合 江戸後期の瀬上窯開始までは一子相伝であり、牝小路家・葛城家の時代に 他産地の陶工が小代焼生産に関わったという明確な記録はありません。



男ノ子焼陶工が 1600年代の半ば以降に小代山(現:小岱山)に移り住んだという説もありますが、当時 小代焼を一子相伝で制作していた牝小路家・葛城家と男ノ子焼陶工を繋ぐ資料は見つかっていません。


ちなみに後期高取焼とは交流があったようで、釉薬の調合法が伝えられました。

しかし、銅釉以外は特に採用されなかったようです。

小代焼では刷毛目、象嵌、鉄絵、釉薬で文字を書こうとしたもの等の作例も見られますが、「注文があったからやってみた。」とか「一応試してみたが主力の技法にはしなかった。」というような印象を受けます。


あくまで主力は「藁灰釉」と「流し掛け」です。



詳しい原因は分からないのですが、次で述べるような「細川家の好み」の問題で他技法を採用しなかったか、
ひょっとしたら陶工の気質(気持ちの問題で新技法を取り入れなかった可能性)も関係していたのかもしれません。



小代焼中平窯での古小代の展示風景



藩主(当時の権力者や指導者)の好みの変化



その時代の藩主(もしくは権力者や指導者)の好みに合わせて作風が変化するということです。

有名な好みに「織部好み」「遠州好み」があります。



藩主の好みが作風に影響を与えた例として 小代焼に一番近く、かつ対照的なものに上野焼が挙げられます。

小代焼の源流となった上野焼は細川家時代では、後の小代焼や初期高田焼に繋がるような作風です。

これは、おそらく細川忠興 もしくは細川忠利の好みであると思われます。

しかしその後、細川家が肥後入国してからは小笠原氏が藩主となり、新たな茶道師範の加入、陶工の代替わり等が重なって 薄作りで釉薬の種類が多いものへと作風が変化していきます。

特に江戸後期には、技巧に重きを置いた装飾の多い作風になったようです。



一方、小代焼の産地である肥後では 細川家の肥後入国以降は国替(幕府が大名の領地を差し替えること)がなく、
基本的に細川家好みの作風で一貫していたと思われます。



さいごに


これら3つのことが、小代焼の作風がほとんど変化しなかった原因ではないかと私は考えています。


以上、小代焼の発祥と作風を長文で書いてしまいました…(^^;
私の個人的見解も混ざっておりますが、可能な限り歴史に忠実に考察いたしました。



公式ホームページの歴史特徴のページにはもう少しまとまった形で書いているので、そちらも読んでいただけますと幸いです。


2024年5月19日(日) 西川智成


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