見出し画像

「結果が全て」と「過程を楽しむ」の狭間で: アジャイルで両取り?

点をみる人、線をみる人

ある日、一緒に暮らすパートナーとこんな話をしていた。

👩「あなたってたまに突拍子もない夢を語るけど、ただ妄想を口にしてみただけなのか、本当にやる気なのかわからないことがある」
👨「そうかな?僕としてはいつも、できると思ったことだけ口にしているつもりなんだけど…」
👩「本気かどうかわからないから、どんな相槌を打ったらいいのかわからないし、なんだか不安な気持ちになるのよね」

彼女が言うには、僕の語る"ゴール"が抽象的で現実的なものかどうかわからないから、どう対応したらいいかわからないらしい。「現実的な"ゴール"ならアドバイスなり応援なりできるし、非現実的なら妄想と割り切って付き合えるのに、どちらか判然としないから困る」と。
うーん、"ゴール"か。"ゴール"というと終着点のようなイメージで、たどり着いたかどうかで評価されるようなものに感じる。僕が語っているのは、あくまで今やっていることの延長線に存在するであろうモノ/コトであって、必ずしも終着点ではないし、そこにたどり着いたらOK、たどり着かなかったらNGというような類のものではない。
「終着」と「延長」か。なるほど。

👩「私にとって夢とか目標って、現実的であることが前提になっていて、それが達成できるかどうかで良し悪しが決まるものって考えなの。結果が全て、というか」
👨「なるほどね。物事を進めるときに、君は目標という点をまず定めて、その達成のためにプロセスを作るわけだね。つまり君は点をみる人だ。逆に、僕にしてみたら何かに取り組んでいるプロセス自体が大事というか楽しいことで、結果というのはその先についてくるものって感覚だな。そして、そのプロセスを続けた先に成し遂げられることと思うことが夢だ。いわば線をみる人ってとこかな」

僕は「点をみる人」「線をみる人」どちらかが優れているとは思わない。点をみる人は目標(What)を達成するために、プロセス(How)の筋道を立てる。そこでもし足りないものがあったら、そこで身につける必要性・動機が生まれて、結果としてパワーアップできる。また、達成困難に思える目標があったとしても、それをいくつかのステップ=点に分解して、1つ1つの点に向けて進むことで、最終的な目標へ近づいていける。
一方、線をみる人は、いま自分が持っている道具を組み合わせることで、自分がたどり着ける未来を測量し、そこまでのレールを敷くことができる。道具を増やしたり磨いたりすることで、とんでもない高みまでレールを伸ばせる可能性も持っている。

ちなみに、話の中でそれぞれ自分の親と似ている考え方をしていることがはっきりとわかったし、パートナーは完全に結果で評価がつくような仕事柄だし、僕はこれまでプロセス自体を評価してくれるような環境に身をおいてきた。経験してきた環境によって、この考え方の違いが生まれるようだ。

「結果が全て」の世界で線をみる人が生きるには

さて、世の中に目を向けてみると、ビジネスにしろスポーツや芸術にしろ「結果が全て」という環境が圧倒的に多いのではないかと思う。
このような世界で、僕のような線をみる人が評価され、生き残っているのにはどうしたらいいだろうか。

以下は僕の小さな経験値と考えによる"測量"だが、「結果をプロセスに組み込むこと」が大事なのではないかと思う。これは今流行りの"アジャイル"なものごとの進め方と符号するものである。
つまり、こまめに結果/アウトプットを提出し評価を受ける、それを持ってまたすぐに少しだけ前に進めて評価を受けるというやり方だ。このように短いスパンで結果を出し、それを道具に加えてプロセスを前に進めていくことで、どんどん高みに進めていけるのではないか。

"アジャイル"な進め方は、僕のような線をみる人を「結果が全て」の世界で生かしてくれる救世主なのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?