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ナカさんの読書記録 「 俺の喉は一声千両―天才浪曲師・桃中軒雲右衛門―」 岡本和明

「浪曲」というとお爺さんが難しい顔をしてダミ声で唸っているような古めかしいイメージかもしれませんが、浪曲がいま大人気です。玉川奈々福さん、玉川太福さん、東家孝太郎さん、国本はる乃さんなど若い浪曲師の活躍が目覚ましいです。浅草木馬亭の定席は人気浪曲師が出演すると満席になるほどの盛況ぶりです。若くして亡くなった国本武春さんは浪曲のみならずロックやブルーズなどクロスオーバーに活躍をしていました。「浪曲」といえばやはり誰もが知っている名台詞「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」やレジェンド・広沢虎造はご年配には懐かしいと思います。

浪曲の歴史は落語や講談よりも新しく、明治時代初期から始まった演芸の一つだそうです。「浪花節」(なにわぶし)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語ります。その頃に活躍した伝説の浪曲師「桃中軒雲右衛門」の伝記小説です。実はそのお名前はまったく知らなかったのですが、この本の表紙写真に一目惚れ(?)してしまいました!背中まで届くロン毛をなびかせ洋風の椅子に優雅に腰掛けて足を組み、真一文字に結んだ口元も凛々しく・・・ど、どなたですか~この素敵な方は!と図書館で手に取ったわけ。ロン毛は当時は総髪と言われていたそうです。かっこいいけど面立ちにはちょっと幼さも残りますね。桃中軒雲右衛門について詳しくはwikiをごらんください。

貧民窟と呼ばれた最底辺の人々が暮らす町、芝新網町にいた雲右衛門。当時浪曲は講談師や落語家からはそんな貧民窟で生まれた卑しい芸と蔑まれていました。若い小繁(のちの雲右衛門)はなんとか浪花節を世に認めさせて自分の芸を日本一にしたいと思い、修行の旅にでます。自分の喉を生かすためには腕の良い三味線弾きが必要と考え、後に生涯の伴侶となるお浜と出会います。お浜は雲右衛門の師匠のおかみさんだったので駆け落ち同然、それまでの芸名の繁吉という名も捨て、二人で新天地を求め西へ向かいます。

大阪などで活動するうちに革命家でもある浪曲師、宮崎滔天と出会いこれがチャンスとなります。宮崎滔天は孫文達を支援して、辛亥革命を支えた活動家でした。滔天は雲右衛門を日本一にするという目標に向かってありとあらゆる方法で雲右衛門の名を広めていきます。今で言う「情報戦」ですね。当時の一番の情報発信源といえば新聞。いまだとインターネットやSNSをフルに使う感じでしょう。とにかく雲右衛門の名を知ってもらい、一人でも多くのお客を呼ぶ、まさに凄腕プロデューサーですね。雲右衛門自身も「こりゃぁ、ちっと褒め過ぎじゃねぇか?」というような記事を新聞に掲載してもらい「東京で名のある浪花節、聴いてみたい!!」というお客の気持ちを煽ります。慈善興行を打って収益を全額寄付したりしました。今でも有名芸能事務所は災害地で炊き出しとかやってますもんね。イメージUP作戦です!

滔天は自分の故郷でもある九州に活動の拠点を移し、機を見つつ東へ攻め込み、最後は東京を制覇しようという戦略をとります。九州に渡り新聞社の末永という男も加わり、各地で公演を行うと炭鉱町の労働者などに浪花節は受け入れられ、あっという間に雲右衛門人気は九州を制することに。
九州に行って成功するのか心配する雲右衛門に向かい、滔天はこう言います。「どんなに上手い人間でも運がなければ世に出ることは出来ませんし、仮に同じ力量の人間の場合、運がある人間の方が間違いなく世に出ます。この運を作り出す決め手は周りにどんな人間が集まってくれるかです。それと「時の利」を得ることが出来るかですが、これは人間の力では予測は出来ない。でも、準備しておくことです。何時「時の利」が訪れるかもしれませんから。」今でも芸は素晴らしいのになかなか売れない演奏家や芸人さんいますね。そういう人は「芸が良ければ自然とお客は付いてくる」と思っているのかもしれないけど、そうじゃないんですよね・・・。まず名前を知ってもらう、芸を知ってもらうきっかけを作る。そうでないと「宝の持ち腐れ」になってしまいますよね。まぁ、逆にセルフプロデュースが巧くて、たいした芸がなくても有名人・・・なんていう人もいるかも(笑)
末永の戦略「義士伝以外やらない」これは「雲右衛門=義士伝」というイメージを植え付ける作戦ですね。これも今でも通用する良き戦略です。滔天と末永という最強な軍師と出会えた雲右衛門。一気に夢へ向かいます。

雲右衛門の派手な衣装や舞台装置はお客の度肝を抜くようなものでした。
「先頭に『桃中軒雲右衛門』と大書した大旗を押し立て、前座を勤める桃中軒雲林の後を白衣に黒袴姿、長髪を結って下げ髪にした滔天が牛に乗って続き、更にその後を同様の服装をし、肩に届く総髪姿の雲右衛門が馬に跨って市中を練り歩いたのである。」ド派手演出でビックリですね!「舞台では派手な卓子掛けを使い」とありますが、今でもそれは引き継がれていますね。
日露戦争の際には「雲右衛門」の名を染め抜いた半纏姿で出征兵士に酒をふるまったり、陰で売名行為と非難する者もあったけれど雲右衛門人気はどんどん高まっていきました。宣伝活動も町中にビラを貼ったり二つ巴の紋のついたガス燈や提灯を飾り、連日新聞記事を載せ、今まで誰も見たことのない徹底した宣伝を打ちました。

九州で成功を収めた雲右衛門は東京進出の機会を伺っていました。その頃東京では「娘義太夫ブーム」が凄まじく、それが下火になるのを待ったりしたようです。ここで前に読んだ娘義太夫竹本綾之助の活躍を描いた「星と輝き花と咲き」とリンクしました!明治時代、華やかで激動の時代ですね!
有栖川宮妃殿下の前での御前興行や歌舞伎座公演などを経て、ついに念願だった東京での成功、「浪花節で日本一になる」という雲右衛門の夢、目標を達成することが出来ました。
当時の評論の中で雲右衛門の芸をこのように表現しています。
「雲右衛門に感ずべきは種々の方面から節を取ってきてる事で、薩摩琵琶、筑前琵琶に似て居るところ殊に絶妙だ、謡曲のところもある、長唄もある、清元もある、新内もある、端唄もある、言葉になれば芝居もすれば、東京の小さんのやうな落語振りもする。」雲右衛門はレコード(SP盤)も吹き込んでいるので今でも聴くことが出来ます。

しかし、そんな華々しい活躍も長くは続きませんでした。雲右衛門の芸の衰え、また三味線弾きとして添ったお浜と愛人のお玉の二人を相次いで結核で亡くします。本妻のお浜と妾のお玉と雲右衛門、ひとつ屋根の下に三人で暮らす妙な生活だったようですが、お浜とお玉はとても仲が良かったようです。雲右衛門も結核を患い最後は淋しく亡くなったようです。享年43歳。今と違い結核は不治の病だったんですね。健康で長生きしていたらと残念でなりません。短い人生ですが浪花節の歴史には大きな足跡を残した雲右衛門。孫弟子に村田英雄さんや東家三楽さん、玉川スミさん等がいるそうです。

この本を書いたのは桃中軒雲右衛門の曾孫さんの演芸研究家・岡本和明さん。あとがきでこう書いています「浪花節に関する『差別』の問題を、どのように描くべきか、迷っていたのだ。(略)雲右衛門の実像を描くには、それしかないと思ったからである。」社会の最底辺から生まれた浪花節。今そんな差別なんて感じながら聴く若者はいないと思いますが、若い人たちの心に浪曲が響くのは人間の根底に流れるものが浪曲から滲みだしてくるからでは、と思います。浪曲はブルーズにも通じる「魂の音楽」と思います。


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