見出し画像

ナカさんのクラシック音楽コラム 23 「はごろも」~銀座の飛翔~王子ホール×観世宗家監修

伝統芸能関係の方にお誘いいただき「能×クラシック音楽」コラボの舞台を見に行きました。「クラシック音楽寄りの方に是非見ていただきたい!」とのお誘い言葉。出演はNHK交響楽団第1コンサートマスター、篠崎”まろ”史紀さん。ミドルネームに”まろ”が入っているから、日本の伝統音楽にも通じていらっしゃる方なのかと思ったら、ぜんぜん違いました(笑)お顔立ちから来ているニックネームなのだそう。お公家さん的なあだ名かと思ってた。

歌舞伎、文楽はよく観劇するのですが、能狂言はほとんど見たことありません。十年位前に文京区民能(能楽堂が区内にある)を無料で見に行ったことがあるのですが感想は「全然わからなかった!」。狂言はまぁコントみたいなので楽しめたけど能に限ってはもう意味不明・・・。「イヨォー、ポン」の繰り返しだし、後ろで大勢のおじさん達唸ってるし。それから十数年経ちかなり私の興味は西洋から日本に傾き、自分でも浄瑠璃を語ったりもしているので、今回久々の能鑑賞が楽しみでした。もちろんクラシック音楽とどう絡んでいくのかも。

会場は銀座のど真ん中にある観世能楽堂。ギンザシックスの地下三階です。クラシック演奏会の客層とも、歌舞伎や文楽の客層とも違う・・・。なんかもう私とても場違い(汗)さすが能楽は昔から帝や朝廷、武将や大名などから庇護を受けてきた特別な芸能なのよね、と緊張気味に思いました。

暗闇の能舞台にヴァイオリンまろ氏が静々と一人舞台に入ってきます。衣装は着物に袴のように見えましたが、よく見ると筒袖でした。楽器弾くのに袖があると邪魔だからかな。黒系で襟に細いパイピングが施されたシックな衣装。静かにヴァイオリンを奏で始めると舞台裏からソプラノの声が聴こえてきます。森谷真理さんというソプラノ歌手。ヴァイオリンはソプラノを引き立たせるかのように、低め暗めのトーンで音を絡ませていきます。弦と声の音色が淡く混ざり合い幽玄な雰囲気が漂う能舞台。照明も青系で美しい。

そして静々とシテ、ワキ、楽器などの能楽師さんたちが大勢登場します。動いているし音も出ているんだけど、ものすごい静けさを感じました。西洋音楽に例えていうなれば、テンポ♩=40くらいで一小節に全音符が一つだけあって、それが何十小節もかけて、全音符が二分音符に、それが四分音符に分裂し、更に八分音符になったときに、それがテンポ40の♪にも関わらず、めちゃくちゃ心臓がドキドキして興奮してしまう。そんな不思議な感覚に囚われました。静から動へ時間をかければかけるほど、ほんのわずかなテンポの変化にも過敏になる。天女の面を付けたシテが目の前にスゥーっと歩みよって来た時、緊張で胸が張り裂けそうでした。なかなか西洋音楽ではこんな感覚に陥ることはなかったので、我ながらビックリしてしまった。西洋音楽の場合はテンポの変化というのはわりとはっきりしているし、意図して変化を付けているわけですが、能のビートは緩やかにエネルギーが満ちてきて爆発するような、そんな感じかなと思いました。約一時間の短い公演でしたが、何故かとても興奮してしまった。西洋音楽と能楽のコラボ、一緒に演奏するというよりは、ヴァイオリンとソプラノが場面転換の音の背景になるような役割でした。もっとガッツリ小鼓とか謡とかとコラボっちゃうのかと思ったら、その辺はセパレートされてた。ソプラノは終始舞台裏でした。

「はごろも」という演目のあらすじはいわゆる天女伝説ですね。松の枝にかかっていた羽衣を見つけ家宝にしたいと持って帰ろうとする漁師、羽衣を返して欲しいという天女、天に帰れないから羽衣を返して欲しいと舞を見せて漁師に返してもらいます。そして最後は天女は無事に天に帰っていく。分かりやすいストーリーだったので良かった。十年前に見たときは全く言葉が聴き取れなかったのですが、今回はシテ、ワキ、謡の言葉や歌詞が分かるようになっていました!浄瑠璃などで古い言葉聴き慣れてきたおかげかな。

1時間の舞台のあと、休憩を挟んでアフタートークがありました。これが結構興味深い話が多かったです。作曲家の加藤昌則さん、マロさん、Sop森谷さん、シテ武田さん、小鼓田邉さん。この公演は一年前に王子ホールで初演されたものを今回観世能楽堂で再演するにあたって少々手を加えたそうです。王子ホールの時にはSopはバルコニーから歌ったそう。Sop森谷さん、衣装は天女のように真っ白な裾の長い素敵なドレスでした。今回はバックステージでお目見えなくもったいなかったですね。
マロさん「クラシックには設計図(楽譜)があるけど邦楽にはそれがない。能の音楽にはアウフタクトがない、気で合わせる。」ししおどしのように、気が溜まってきたところで”コン”と音がでる。西洋音楽は”動”の音楽でそれを表面に出す。能楽の場合は内に秘めている。音楽が一緒に動く時、洋の場合は「ズレてはいけないもの」和の場合は「ずれることは問題ではない」というお話が印象的でした。クラシック音楽で「ジャン!」と奏者が一斉に演奏するときに「ジャ、ジャン!」となれば「はずしちゃったね、失敗したね、下手だね」と言われかねませんが、邦楽では「合う」ということはそれほど重要とされてないのかもと思いました。(これは義太夫節を稽古している私の実感でもある)小鼓や大鼓、太鼓が「ぽ、ぽん」とズレたところで、大勢に影響がないようで、たまたまズレちゃったね、程度なのかも。とくに小鼓の田邉さんのお話は興味深かったです。8という単位、能楽の八拍子(やつびょうし)について。このあたりは先日読んだ本「ものがたり日本音楽史」にも出てきたのでもっと詳しく知りたいと思いました。それから見た目的にも大きく違うのは、ステージで西洋音楽は基本的には楽譜を置いて演奏する、邦楽は楽譜は置かない。この公演でもマロ氏は譜面台ありの立奏。能楽はもちろん暗譜です。この辺が「西洋音楽は作曲家が作った音楽の再現」が最も大事で、邦楽はなにか違うベクトルなんだろうなと思います。

最期に作曲家の加藤さんが、日本伝統音楽と西洋音楽のコラボの難しさ、ぶつかり合って新しいものを生み出すことは誰かがスタートしないと始まらない、そのスタートがこの公演になると良いですねと仰っていました。宮城道夫の「春の海」が今ではお正月定番の音楽となったように、数百年後に能にヴァイオリンが入るのが普通になってるかもしれません。そう想像すると小さな一歩かもしれないけど日本音楽界には大きな一歩だった、と言いたくなるのかもしれません。最期に、アフタートークで明るいところへ出てきたマロ氏はN響首席というより和食の料理長のように見えました・・・(笑)

2020.12.1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?