結局、人生は自己満足なんじゃないか。
この人生とかいうよく分からん期間に突入して、
はや四半世紀が過ぎようとしている。
人生の至上命題として僕が一つあげるのなら、
幸せの探求だろうと思う。
例外はあれど、生きている人間の過半数以上は幸せになりたい筈だ。
しかしまあ、幸せとはあまりに抽象的すぎる。
求めれば求めるほど分からなくなってゆく。
僕が考えた範囲では、幸せとは自己満足だ。
なぜそんな考えに至ったのかを書かせて欲しい。
人間に意思がある限り、全ては相対評価だ。
当たり前のことかも知れないが、この世に絶対などない。
それは、人間が二人以上居て、それぞれに意思があるからだ。
その所為で、唯一絶対の価値観が存在しない。
だから、相対基準で幸せを定義づけてしまうと、
余程の才能がない限りは非常に苦しいことになる。
他者と比べるには、この世には人間が多すぎる。
僕や君より優れた人間など、星の数ほど居る。
相対基準による明快な幸せを得られるのは、
それこそこの世で最も優秀な一人だけだ。
この世の下衆なステイタス意識、社会人などという訳の分からない肩書き、
全てこんな相対評価の代物だ。
それを追いかけるのは非常に疲れる。
万人にウケる幸せがないなら、自己満足するしかない。
先にも書いたが、相対評価による「幸せ」に成れるのは
この世の一握りだけ。
だったらどうしようか?
人間生きている限り、この世の構造が変わることはない。
人類補完計画で完全な一つの生命になったりもしない。
最早僕らのような凡人には「万人ウケする幸せ」は届かない。
だからこそ、自己満足するしかないのだ。
何気ない日常の中に幸せを見出すなんてのは良くある流れだが、
要するにこういうものだ。
自分の現状に、それを取り巻く環境に、
無理矢理幸せと呼べるものを見つけ出すのだ。
それに慣れてくると、本当に幸せであるかのように思えてくるだろう。
それが、幸せという綺麗さの裏にある、凡人に対する要求
だと思っている。
繰り返すが、僕たち凡人に、手放しの幸せは有り得ない。
幸せになりたいなら、幸せにならなければならない。
この世には、「誰でも等しく幸せになれる権利がある」的な概念がある。
それは真っ赤な嘘だ。
人間は一握りしか幸せに慣れないし、幸せと思い込めるのも一部だ。
だから、幸せになりたいのなら、自分で幸せと思える心象を作らなければならない。
幸せになれるのではなく、幸せになる努力をしろということだ。
いつか、妥協としか思えないこの幸せという概念を、
本物だと思える日が来るのだろうか。
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