檸檬の散弾/図書館にて(短編)

マルボロは悪魔だ。
汚れた換気扇の羽が回る下で、煙草を吸いながら私はそう考える。マルボロの風味は他と違って、甘いメープルのような、焦がした蜜のような、そんなかすかな甘みがする。ねっとりと甘いわけではなく、あくまで気配だ。メビウスでもセブンスターでも、ウィンストンでも駄目なのであって、わたしは煙草はマルボロを好んだ。
禁煙する、と身内に告げてから2度、もう誓いを破っているし、敗れている。問題なのは、と顔をあげて細く煙を吐いてから考える。開き直れないことだ。喫煙者は、開き直らなければいけないのだと思う。たとえ自業自得で肺がんになったとしても、咳が止まらなくなっても、それは自分で選んだ結果なのだから、という。悪いことはしていない。自分で健康を削って快楽を得ている、それで構わない。という開き直り。彼らはそれを達している。火を燃やすごとに、いつも。
わたしは意気地なしなのだ。罪悪感を覚えながら吸う煙草がうまいはずがない。それならやめてしまったほうがいい。くだらない。そう思って二本目の煙草を途中でもみ消す。
そろそろ図書館に行こう。灰皿を片付け、炭酸水をひとくち飲み、台所を後にする。換気扇を消したことをたしかめてから。運転のBGMはくるりのサ・ワールド・イズ・マインにすることに決めた。

図書館への道中、車で信号を待つ。赤信号の灯りに目をやりながら、わたしは両手の人差し指でとんとんとハンドルをたたく。かすかな苛立ち。信号待ちが長いせいではない。ニコチンもまだ切れてはいない。自分の近況がそうさせているのだろう。
ブレーキペダルに置いた足の力を一定に保ちながら、わたしは頭の中で苛立ちの原因を整理した。
まず、先日履歴書を送った企業からは3日後にあっけなく不採用の連絡が来た。たった数行のお祈りメール。また一から応募する企業を探さねばならないのかと思うとうんざりする。
また、先週末に一緒に酒を飲んだ男からはその後連絡がこない。多分、もう会わなくてもいいやと思われたのだろう。それは仕方ない。よくあることだ。でも会うに至るまでのメッセージのやり取りや日程調整をこまめにし、当日やや気合を入れてメイクをして、いつもより早めに駅についてそわそわと待ち時間を過ごした自分が哀れに思えてしまう。
おまけにまだ4月だというのに今日の気温は25度を超えていて、薄手とはいえシャツの上にカーディガンを羽織ってきてしまったことを後悔していた。運転中でシートベルトをしているので、脱ぐこともできない。図書館につくまでの辛抱だ。
そして一向に続かない禁煙。これだけの要素がそろったら、イライラするのも無理はなかろう。そこまで考えたところで信号は青になった。軽くアクセルを踏み込み、道を左折する。


駐車場の隅のほうに車を止め、助手席からショルダーバッグと、本を入れるためのくたくたの布のトートバッグ、車のキィをつかんで外に出る。午後2時の日差しがまぶしい。日差しを気持ちよく感じる日もあれば、うっとうしく感じる日もある。
図書館の屋根の下に入ってから入り口までの通路が長いので、いつも日陰になっていて、そこだけひんやりとする。その暗い小道がわたしは好きだ。
図書館は人気が少なかった。子供の姿はなく、おじいさんや4~50代くらいに見える人たちが足音を響かせずに本を閲覧している。入り口前のフロアにあるゆったりとした1人がけの椅子たち、そこに座って新聞紙をめくるおじさん。平日のすいている図書館に来られるのは無職の特権だ。
わたしは返却コーナーで4冊の本を返し――エッセイ2冊、長編小説1冊、料理の本が1冊だ。最近エッセイを読むのにはまっている――、書籍の検索用のコーナーに行った。好きな作家の新作の小説を検索するが、案の定貸出中だった。あきらめて、今日は気になっていたエッセイと、なにかレシピ本でも借りて帰ろう。

エッセイを借りる前に、いつものように現代小説のコーナーへ行き、本棚の「む」の作家の欄を眺める。好きな作家がおり、ほとんど作品は読みつくしているのだが、本棚に今日はどんな作品が置かれているのかは気になるのだ。
やや前かがみになりながら背表紙を眺めていると、とん、と体の右側に誰かがぶつかってきた。気配に気が付かなかったので、驚いた。
「あ、すみません」
館内に声が響かないように小声で謝りながら、ぶつかってきた相手を見ると、若い男がぼんやりと立っていた。男は少しの間わたしの顔をみて、それからゆったりとした声で言った。
「こちらこそすみません。檸檬の散弾」
男が耳慣れない言葉を言ったので、わたしは、え?と思わず聞き返した。
すると男も、え?という顔をしたので、奇妙な間が生まれた。
わたしたちは本棚の前でしばし見つめあった。

男はわたしと同い年くらいか、それより若く20代にも見えた。線は細く、髪の毛はパーマはかけていないだろうけれどやや伸びていて、くしゃっとしたベージュの麻のシャツを着ていた。変な身なりにも思えなかったが、彼が謝罪の後に添えた言葉の意味がわからず、わたしは少し混乱した。
レモンのさんだん、と聞こえたような気がするが、レモンというのは果物のあのレモン?その算段?三段?
「ああ」
男は前を向きなおし、何かに納得したような小さな声を出した。
「すみません。村上春樹の本を探してたんです。でも目当ての本がなくて。しゃにむに」
いよいよ男が何を言っているのかわからなかった。話の前半の意味はわかるが、語尾の意味というか、つながりが分からない。もしかして方言だろうか?この地方は田舎なので、方言を使う若者もいるが。
しかしわたしも好きな作家であったので、つい話を続けてしまった。
「・・・村上春樹ならここの棚ですけど、何の本ですか?」
「羊をめぐる冒険、です。怪物の日光浴」
混乱で男への不信感がつのるばかりだったが、男がタイトルを挙げた作品はわたしがつい先ほど返却した本だったので、親切心が顔を出してしまった。
「それなら、さっきわたしが返却したばかりなので・・・司書さんに言えば、借りられると思いますよ」
男はすこしほっとした表情を見せた。顔が緩むと、年齢がいくらか若くなったように見えた。
「ああ、そうですか。よかった。そのために今日来たので。聞いてみます」
そこまで言って、男はわたしから離れてカウンターのほうへ向かおうとした。しかしぴたっと足を止めて振り返り、わたしに軽く頭を下げた。
「どうもすみません。ありがとうございます。ブドウムスリカ」
そういうと男は再びカウンターへと向かっていった。わたしも小さく会釈を返したが、男には見えていなかっただろう。
檸檬の散弾。しゃにむに。ブドウムスリカ?男が口にした一貫性のない単語の数々を、わたしは苦い味の飴でも口にしてしまったような気持ちで、反芻した。

結局今日は3冊の本を借りた。トートバッグに本を入れ、すっかり手になじんで柔らかくなったそれを肩にかける。(父が昔アラスカ旅行のおみやげにくれたバッグだ)駐車場に向かう途中、広場の大きなプラタナスの木の下で、さっきの男がたたずんでいるのを見つけた。
わたしは反射的に足を止めた。男は顔を上に向けて、広がった緑の葉を眺め、黒いスニーカーを履いた片足で軽く地面を蹴っていた。ごく小さな布製の、お弁当袋のようなバッグを手にしていた。そこに本を入れているのだろうか。
奇妙だ。
脳内にその一言がくっきり浮かんだのを感じてから、わたしはさっさと広場を横切り、車のほうへ向かおうとした。
「あっ」
そこで男の声を聴いた。男がこちらへ向かってくるのが、草を踏み分ける足音でわかる。わたしは仕方なく男のほうへ向き直った。
「さっきは親切に、ありがとうございました。驚かせてしまって」
いえいえ、と私が言うより先に、また見慣れぬ語尾がそれを追い越した。
「ヘチマのスポンジ」
また沈黙が下りた。日差しがプラタナスの葉を通してちらちらと揺れた。
男は気まずそうな表情を浮かべた。もちろんわたしだって気まずい。しかし、男が必ず語尾に着けるその奇妙な単語の数々が、気にならないと言えばもうウソになった。
「すみません、失礼な質問かもしれませんが」
わたしは少し言葉を選んだ。
「あの・・・ヘチマのスポンジ、とか、檸檬の散弾、とかって、なんですか」
男は少しの間黙った。わたしは正面から男の顔を眺めるのも失礼かと思ったので、肩にかけたトートバッグのひものずれを直すふりをした。
「すみません。僕の、一種の癖で。いつも語尾に意味のない言葉をつけてしまうんです」
おそらく今までに何度も人に説明してきたのであろう、その文章はよどみなく男の口から流れた。
「仕事とか、集中しているときは、出なくて済むんです。でも日常会話ではいつも出てしまって」
男の言葉を信じるのならば、それは気の毒なことだと思った。しかし、そうでしたか、大変ですね――と返すのは簡単だが、いまここにそぐう言葉は、それではないような気がした。そこで、
「羊をめぐる冒険、借りられましたか」
と私は聞いた。男は、急な話題の転換にすこし驚いたようだったが、やや微笑んで、
「ええ。あなたのおかげです。完璧な耳を持つ女の子」
と言った。
その言葉の意味は、唯一私にも通じた。わたしは自分が微笑むのを感じた。
「よかった。じゃあ」
と言い、その場を去った。男がいまわたしの後ろ姿を見ているのか、それとももうプラタナスの木に目線を戻しているのかは確認しない。
デニムのポケットから車のキィを取り出すと、やや掌が汗ばんでいるのに気付いた。


車に乗り込み、助手席に2つのバッグを置き、ハンドルに向き直って深く息を吐く。そのとき、わたしは借りたかったエッセイを一冊借りそびれたことに気づいた。あの男にぶつかって驚いた瞬間に、そのことを忘れてしまったのだ。小さく舌打ちが出てから、そのことに自分で驚いた。
座席に深く座り込み、後ろに頭をもたれかける。揺れた髪からかすかにマルボロの残り香がした。


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(地元の図書館が好きです。羊をめぐる冒険も好きです)