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私の幸せ

最近、考えることが減った。いや、正確には、考え事はたくさんあるんだけど、その内容が 自分の内側だけに向くネガティブなものばかりではなくて、他者も含めたポジティブなものへと変わっている、その割合が大きくなっている気がする。

私は6月の頭に アイデンティティの暗闇に突き落とされてから、腐るほど悩み、恐らく 1つの峠を越えた。あるいは、色々なことをお休みすることを他者に、自分に、許してもらった。はたまた、私は1つの、大きくて、大切で、少しだけ秘密の恋を乗り越えた。わたしはまたひとつ、強く、賢くなった。

私はここ数日でたくさんの人と話し、笑い、もう考えない。きっと最上の幸せである。そして私は、もうこの文章自体から分かるように、そういう幸せを得ている時に、今までも 今も総じて、きれいな文章は書けない。

私の要である、あるいは要であると思っていた、正確で克明で緻密な文章、自分の内面への終わりなき探究、文字、大好きな「美しい文章」は、自分が少なくともある程度 不幸でないと紡げないのだ。
文字と幸せはトレードオフだ。それはすなわち、アイデンティティと幸せがトレードオフであることも意味している。文字はアイデンティティだから。
だから、今たぶん、不幸なほうの自分が死にそうになってて、あわてて最後のうめき声をあげているんだと思う。そうして、私は筆を走らせている。

自分が変わっていくことには、恐怖と痛みを伴う。でも、私は、意識的であれ無意識であれ、変わる必要がある。必然的に変わる。周りも、社会も、また そうであるからだ。私はもっと、素直に、寛容に、幸せに、変わりたいと思う。

私はもう 文章を紡げない。せいぜい、1フレーズかそこらの寄せ集めで手一杯である。名言botである。これはもしかしたら ずっとそうかもしれないし、でも 多分私のことなので、また 不幸っぽいものが訪れて、延々と内省を重ねた後に 陰をにじませた美文が書けるようになるかもしれない。
人生は その繰り返しなのかもしれない。

幸せで満たされ、手も頭もすっかり鈍った私は、いったんの最後に、ツイッターの下書きにちびちびと残した 1フレーズの寄せ集めを、そのままつづろうと思う。“私”へのはなむけである。

(抜粋)
「大人になることによって自分の苦痛を軽減できるなら、それは大切で必要で、決して恥じることではないよ」

「どれだけ“良い悩み”をするか、ということなのかもしれないね
少なくとも、自分にとってはそうだ」

「足枷になるなら、ゆっくり手放そう
“完璧”も “こだわり”も “まじめ”だって」

「苦手だけど諦めたくないこと、少しずつ、本当に少しずつ 成長したいこと」

「私は、社会との繋がりを、他者との繋がりを、絶対に 諦めたくない」

「“私たちは、咲ける場所に 種を蒔きに行こう”」

「同調できなくても 協調はできる」

「今なら自分へのラブレター書けそう」

「ワガママで不器用で、でも 優しさと思いやりに溢れていて、たくさん悩んで乗り越えて、たくさん愛されてる自分が大好きだよ」

私が少なくとも今、自分自身を心から愛せているのは、私を支え、愛してくれた、愛してくれる たくさんの仲間が、人が、いるからである。私はいま、涙を僅かにこらえながら、寮の公共スペースで これを書いている。

2023.7.16


馬鹿だなぁ。不幸なほうの“私”とやらが そんなに脆いものだと思ったか。
脆いのはいつも 幸せのほうで、不幸はしぶとく つきまとってくるのがお決まりだ。
“私”の最後のうめき声だと勘違いしていた それは、幸せのバブルの崩壊音に過ぎないのであった。
…なんて、難しい言葉で語るものでもないのかもしれない。
楽しい非日常の後にひとり、日常に引き戻される寂しさは、誰しも感じるものでしょう。

でも私は、絶望しない。“人生はその繰り返し”であるからだ。
不幸があるからこそ、幸せは光り輝く。その陰は、光が確かに在ることの証明なのだ。不幸は 私にとっての深みとリアリティである。

幸せなだけの人生なんて 有り得ない。
そんなもの、薄くて浅くて、つまらないでしょう。

2023.7.17

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