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 最近、嘘をつくことが上手になった。キャパ的にしんどそうな用事は「インターンがある」と嘘をついて断り、本当は今すぐ帰ってゆっくりしたい飲み会の席では、「うわ、もうこんな時間か」「明日朝早いんですよ」「10:00から説明会があって」と巧妙な演技で退出することが可能であった。

 こういう、自分をラクにしてあげられる、かつ誰も傷つけない嘘をつけるようになったのは、良いことだと思う。昔は嘘をつく理由なんて分からなかった。でも今なら分かる。真実だけで生きていくには、世の中はあまりに複雑で、厳しすぎる。

 嘘をつくことは、社会生活を円滑に進めるためのスキルになってくれる。だって、私の「ほんとう」は、社会適合にとっては逆風であるから。

 すぐに傷付く。完璧じゃなきゃイヤ。疲れやすい。色々と気にする。怖い。不安。集団行動をしたくない。ずっと悩んでいる。プライドだけ高い。視野なんて広げたくない。狭い世界で生きたい。興味のないことをやりたくない。人に頼るのは苦痛。適当なことを言いたくない。今すぐ全て投げ出して休みたい。家事はけっこうしんどい。あらゆる手間をお金で買いたい。あまり社会に出たくない。

 私は、そのような「ほんとう」に対しても、上手に嘘をつけるようになった。完璧主義はよくないと、悩む時間はもったいないと、人に頼ることがこの身を救うと、皆ができる簡単な作業ぐらいがんばって身に付けようと、プライドなんて無駄だと、認知が歪んでいると、こんなのは自分の被害妄想だと、何の生産性もない駄文ばかり書き続けているなんて恥ずかしいと、自分の調子は自分で管理すると、実に多種多様な鼓舞の言葉を身に付け、他者の言葉を内面化し、自分本位の偏った思考を矯正しながら、日常でより多くのことをこなせるようになった、はずだ。

 10分前まで絶望と不安で泣いていたのに、人前に出て平気で話して、その感情を忘却することさえできる。それをしなければ、ただ1人で何時間も延々と泣いているだけだから。そんな「絶望」感も、無理やりシャットダウンすれば消えていく、実体のない事象だから。

 もう1つ、興味深い嘘がある。それは、「やりたくないのにやってしまう」ことだ。課題や生活などの「やりたいのにやれない」とは全く違う。

「やりたいのにやれない」は、ある意味「やりたくない」の一言に集約することができ、その要望通り身体は動かなくなる。「やらなきゃいけないのにやれない」の方が正確かもしれない。でも、「やりたくないのにやってしまう」は、完全な矛盾であり、心から独立して身体が独り歩きする。

 ツイートなんかしたくないのに延々と投稿する。別に全く食べたくもないのに甘いものを買いに走る。悪態なんか吐きたくないのに、口をつくのは汚い言葉。自分にこれ以上厳しくしたくないのに、浮かぶのは酷い言葉。別に見たくもないのに、しょーもないYouTubeを見ている。こんな気味の悪い文章なんか書きたくないのに、いま、書いている。

 嘘を重ねに重ねた末に湧き起こる感情は、虚しさだけだ。大人になるとは、社会を生きるとは、数えきれないほどの嘘をついて、抱えきれないほどの虚しさを抱えて、生き延びることなのだろうか。

 だとしたらそんな世の中はクソだ。いや、そうやってしょうもなく粋がって、大げさに病んで、現実逃避をしている自分のほうがよっぽどのクソ野郎かもしれない。…どっちでもいい。多分どっちもだ。全部クソだ。ゴミが。カスが。

 もっと冷静で合理的な捉え方をする余地があると思う。でもそれも、私にとっては立派な嘘だ。今の自分は、この行き場の無い感情を、小学生レベルの語彙をもってここに吐き出すことしかできない。

 歌だけ歌って生きていたい。それが叶わないのなら、温かい場所でずっと眠りたい。

2023.9.23

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