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言葉を紡ぐということ

よくもまあ偉そうな題名をつけたものだと思う。


私は、言葉を紡ぐことがめっきり下手になってしまったようだ。

怖いから。人にさらされることが。評価されることが。


言葉の大きな意味の一つは、他者間での意思疎通だ。

人間はもっぱら言葉によって、情報を伝達し、つながりを生む。


言葉は人に伝えるものだから、人のことを考えて紡がなければならない。

自分の思考を、的確に、相手に理解可能なように表現せねばならない。

伝わらなければ、無いのと同じだ。

わかっているのに、同じことを言っているのに、すべて理解しているのに、

適切に伝えられなければ意味がないのだ。


ここ最近、自分を開くことの大切さを身にしみて感じる。

当たり前である。食べることも寝ることも、学ぶことも書くことも、遊ぶことも休むことも、好きになることも話すことも、1人では何もできない。

寂しがりやになったと感じる。弱くなったように見えるが、私は以前より強くなったのだと認識したい。


自分を開くために、自分の言葉を開かなければいけないと思う。

文の構成は?接続詞は?余計な部分はないか。

相手に必要な情報を伝えて。読み手のことを考えて。

感想文にならないで。書き方を学ばなきゃ。自己満じゃだめ。

いいね。客観的な視点。インプレッション。数字による分析。


自分の言葉を開くために、様々なことを試みた1年間だった。

Noteを始めた。(!) Twitterをたくさんした。

Twitterのリプライのバイトをしている。Webライターについての本を購入した。

ブログの寄稿文を書くバイトをしている。レポートを書く日々。

寮でたくさんの話し合いに参加した。がんばって重い口を開いた。


たぶん割と厳しいものがある。難しい言葉を紡ごうとすると固まってしまうし、簡単な情報を提供しようとすると、妙な浮遊感と嫌気が生じる。

ワガママなのだろう。 そうだよ。 いつだってそれでしかない。


口が重いと言ったが、私の口が重いのは相手のことを考えて周囲の空気を読んで、あるいは論理的で客観的な発言をしなければいけないときのみだ。手が重い時も同様だ。

私は自分の感情を自分の言葉で語れるときに必ず、驚異的な速度で口と手を回すことができる。


もう1回言うけど多分ワガママなんだと思う。負け惜しみなのだ。独りよがり。

例えばこの文章を多くの人に読んでもらうために、適切な言葉と文体で自分の主張や感情を表現し、SNSで人気の多い時間帯に投稿し、知り合いに宣伝をし、尊敬に値する人にも触れ回って感想をもらって、フィードバックを次に生かす必要があるのだ。


私はほんとうにどうしようもないのでこの中の1つたりとも本当はやる気が起きない。どんなに未熟であったとしても、これらのことを実行する人を、私は、心から尊敬できる人にこれからなりたいと強く思う。


やはりこれが自分の言葉なのだと思う。読み手の、聞き手のことなんかほとんど考えず、

ほとんどって言ったのは1ミリぐらい気にしないと本当に何を語る権利すらないと思うから、でもほとんど考えず、自分の思うままに書きなぐること、

話し殴ること、きっと良い言葉とはほど遠い。


自分の言葉を肯定したい一方で、他人にさらされた瞬間の自分の言葉のつたなさを悲しく感じる。私はいつもそう。他者の評価を気にしなければしないほど生き生きとしてくる。その逆は言わずもがな。

そして、この社会は、他者の評価と、コミュニケーションと、つながりと、無縁ではいられない世の中だ。


「自分の言葉を多くの人に届けたい」とよく耳にするが、

多くなくてもいいからその辺の限られた人にでも届いててほしい。

それもだめだったらもう自分自身に届いていればいいと思う。

自己満足というけれど、自己が満足していて何がいけないのか問いたい。

今この瞬間にもこの文章のすべてが負け惜しみだと自覚した気になる。

そうやって他者からの介入を防いで自己完結させようとする。


どんなに遅々としていても、自分のペースで、自分を開く努力を絶えず続けたい、

ととりあえず記しておく。 でもたぶんあんまダメだ。


私は私に閉じた言葉しか紡ぐことができない。

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