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日記 (食べ尽くし、仕事、社会)

今日は、総人・人環新歓(いま住んでいる寮の中で私の所属する学部向けの新歓、自分は運営に回る)というものがあったのですが、ここ最近ずっと悩んでいた自分の「食べ尽くし」的な志向性に関して、新たな気付きや思考が出てきたので、公開日記として残そうと思います。本当はもっとちゃんと綿密な文章を書きたいけれど、まぁ、いつもいつも完璧じゃなくたっていいかな、とか。

ここからは、私がいつも書いてる日記、今日も元々いつものように自分だけのために書こうと思った日記。読み始めるために必要な注釈を付けると、私は会場でピザトーストを作って、皆に行き渡るように必ず4つに切って配る役割を請け負っていたが、自己紹介タイムの会場を盛り上げようとそれなりの時間 席を離した隙に、まだ切っていないピザトーストを勝手に食べられてしまったのだ。誰かにバトンタッチしないまま席を外してしまった私の責任も多分にあるけど。

文末を補助する注釈もここで。
私は自らが自覚するASD性により、どこか局所的に、「人間」の情緒に欠けていると思われる部分がある。しかし私自身は、私を知っている人なら分かる通り、おおむね感情豊かで優しく人あたりの良い「人間」として通っているし、実際そうだ。あくまでも局所的に、ということなのだが、「食べ尽くし」の文脈になると、私の思考はデジタル化し、人間性はやや薄くなるように感じる。

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マジでむかつく…。
でも、こんなにムカつくのって、巡り巡っては自分ごとだから。だって私だって、新歓はご飯を飽きるまで食べ尽くしたいよ。食べ尽くすっていうのは、みんなの分ってわけじゃなくて、自分のお腹の容量いっぱいって意味。でも食べ物の量が限られた新歓の場では、自分のお腹いっぱい=皆の分まで食べ尽くす ということになるよね。)

私はいつも、自分の気持ち悪い衝動をメタ認知して、細心の注意を払って、ご飯の対価にお金を十分払うとか、交流をしたからこその報酬だと心に刻み込むとか、心に余裕がなくて不適切な行動を取りそうな時は場に出ないで自分でご飯を買うとかしてるのに。

「あれが許されるなら、私の努力は何だったの?」って心の中で言いかけたけど、前に全く同じ話をした時の、(友達①)の言葉が私を救ってくれた。私はちゃんと努力をして、人の信用とか評価、私なりの尊厳とか、けっして目に見えないけど私自身にとって確実に大切なものを守っている。無駄なんかじゃないよ。これまた見えないところで、きっと報われているということなんだ。

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今日は全体的に本当に良い日だったはずなんだけど、ちょっとある1シーンのネガティブ感情が強すぎて、一旦吐き出さざるを得なかった。朝(昼)から改めて振り返る。

起きて、双子の卵から作った美味しいパンケーキを食べて、新歓の準備をした。牛すじの下茹では大変だったけど、手伝ってもらったのも含めてだいぶうまくできて、(友達②)の仕上げも良かったし、それに同席できたのも良かった。美味しかった。もつ鍋も、牛すじトマト煮も、ピザトーストも、全部しっかり美味しく食べられた。

調理や連絡や鍋とトーストの番人など色々働いて、疲れはしたけどやりがいがあって、良い1日だった。上に書いたように、番人を請け負ったにも関わらず自分が席を離れてしまった隙に、トーストを食べられてしまったのはとてもショックだった。

でも、(恋人←会場横でパソコンから手が離せなさそうに仕事をしていた)の分ちゃんと並んで受け取ったトマト煮を渡せたのは嬉しかったし、自分でまた並び直して、誤解なきようにちゃんと説明して受け取ったトマト煮も、ピザトーストを配る役割をまっとうしたからこそ食べられたチーズたっぷりの薄焼きトーストも、本当に美味しかった。そうしたからこその美味しさっていうものがあるんだと思う。他の仕事や報酬、というと固いが、なんか嬉しさとか貰い物も、もしかしたらそうなのかな?

ちゃんと働いて食べるご飯は美味しい。そりゃあ、いつもそんなにできた人間じゃないから、何もせずに美味しいご飯が食べられるならそっちの方がいいけど。でも、ズルをするのは良くないというか、逆に正当で誠実でいたからこその喜びがあることを今日知った。

私は社会性を身につけることによって、社会の歯車として生きることになる。それはとりもなおさず、皆に信頼され、支え合いながら生きていける喜びを味わうということなのかもしれない。自分自身が死んでしまうこと、なんてものでは全く無いんだ。一面的で大げさかもしれないけど、今はそういう気分でいる。

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あまり上手くまとまらないけど、私は今まで、なるべく自分の利益と快楽のためにより多くの食べ物をを食べたいというある種卑しい、獣のような欲望と、それがどうも社会的に許されないらしいというどこか掴み兼ねるような、しかし確かで強固な理論・理性の板挟みになっていて苦しかった。しかし今日、そのように自分が渋々取り持ってきた「社会」性を、感覚のレベルで肯定できたのだと感じる。

私は結局自分の欲望に正直な人間だし、でも周りの人たちのことだって大切にしたい。それが叶うなら、「ご飯の対価」としてのカンパや、「交流をしたからこその報酬」のご飯って考えも、これが他の人から見たら機械的すぎて気持ち悪さを覚えるような代物だったとしても、自分の中にそっとしまって、(まぁここにはガッツリ公表するが、)心の中で十分に正当化すればいい。いくらでも上手くやる。建前だって建ててみせる。私はよりスムーズに「人間」らしく振る舞うための工夫を日々アップデートしていく。

だから、どうかこれから、私が私のまま、皆に温かく迎え入れられる生き方を模索させて。

私にもっと、人の心を、人間の温かさを教えて。

2024.4.29

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