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私の生き方

「もう十二分に、私なりに、他者と関わりながら生きることができているのだ。」

この言葉は、20年間「他者との関わり」への答えを追い求め続けてきた私のことをあっさりと殺害した。他者との関わり方を言語によって学習し、成長する不断のプロセスは、私の生きがいであり人生そのものであった と言っても過言ではない。私はその点に関して常に満ち足りず、求め続け、考え続けた。その結果ついに、「もう十分」「できている」という答え、少なくとも暫定的な答えを導き出した。求めていたものが手に入ったはずなのに、喪失感が生まれるというのは皮肉なことだ。私は、しかし、実はきっと「答え」の部分よりは「プロセス」のほうをすっかりアイデンティティとしていて、それを急に奪われてしまったら、もうどうしていいのか分からず途方に暮れるばかりだ。私のこの生き様は、「高機能ASD女性に特徴的な症状である”カモフラージュ”」というような一言で、これまたあっさりとカテゴライズされてしまう代物だったようだ。

私はいま自己同一性が混乱している状態なので、「今まで通り」自身の内面を、硬い言葉を書き連ねて、延々と語り続ける上記のような文章を見返して、さっき書いたばかりなのにも関わらず、いまの自分になじまないような、気味が悪く、白けたような感覚を覚える。「こいつまた何か言ってんなー」みたいな。

もっと適当な言葉で語れることだけ語ろうと思う。
私は一人で喪中の日々を過ごす中で、ときどき、自分の頭の中にある思考を適当に書き散らし、あまりにもよく出てくるので名(迷)言botと化したが、その中でいま読み返してもしっくり来るフレーズを厳選して記録しておく。

「やっと許せた気がする」
「音楽は常にわたしに寄り添ってくれて、気もちを教えてくれる」
「歌が心にしみるのも、私が独りではないことの証明である」
「大切なエネルギーだから、大切な人のために、大切に、使ってあげよう」
「私が今日も“私”として生きていることや、周囲との関係性、温かい他者の態度は、全く、とは言わないが、ほとんど変わることはない」
「“(名前)”と他の誰かとの関係性が、今日も安らかに続いていくだけである」
「ASDであろうとなかろうと、私は文字が好きで優しくて真面目で 単独行動が好きで不器用で神経質で 自分と人のことを思える“(名前)”である」
「苦手に対して、ここまで試行錯誤して、体当たりできる人は、きっと他にはいない」
「バッテリーがなくなったら、きちんと充電して、また使えばいい。ただそれだけ。バッテリーがなくなったことに病む必要は全くない。すやすやと眠るなどすればいい」
「今までの私は死んでしまった
一度死んだなら、もう一度 生まれ直せるかもしれない」

私の発する言葉、ひいては私の生きがいは、根こそぎ奪い取られてしまったように思われたが、案外そうでもない。私は今日もまた、そしてきっとこれからも、言葉で自分の生き方を探り、感情を確認し、振り返り、消化し、血肉としていく。これは本当に、本当に、「生きる」という不断のプロセスなのだと思う。私はこれからも このようにして生きていくのだ。

少しだけ世俗的な話をすると、私は昨日髪を切った。ばっさりと。今までになかったような短さに。この一手は非常に正解だったと感じていて、その理由は、自分の内面の大きな変化を、外見の大きな変化、ポジティブな「イメチェン」として昇華させることができたからだ。あまり笑えなくなったこと、愛想を振りまけなくなったこと、今まで無意識に内面化してきた 古典的な「女性らしさ」への違和感、そのようなものがある程度「クールで大人っぽいショートヘアー」に吸収されてくれている。ありきたりな話だが、髪を切って「心機一転」「生まれ変わったような」という気持ちは、このようなものなのか と分かった。

私はこれから、言葉を駆使して、自分なりの工夫を凝らし、時に他者の力を借りて、喪中から抜け出し、また すくすくと日々を歩んでいくことだろう。これもまた ありきたりな言葉ではあるが、何かの終わりは、必ず、次の始まりを意味するのだ。

2023.6.8

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