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【ディスク 感想】ビンゲン/単旋聖歌集 ~ グレース・デイヴィッドソン(S)

 ここ何年か、古楽系ソプラノ歌手の歌を好んで聴くようになった。きっかけははっきり覚えていないが、たぶん、カタルーニャ出身の名花、ヌリア・リアルの歌に出会ったのが大きいと思う。

 リアルに代表されるように、古楽ソプラノは、ヴィブラートを極力抑え、まっすぐでピュアな声を、ぽーんと響きの豊かな空間に解き放つように歌う。

 それがいい。まさに「癒される」のである。自分の心が埃っぽく、どんより澱んでしまっているからだろう、天使のような声を聴いているうち、なんだか自分が良い人間になれるような気がしてくるのだ。もちろん、そんなのは勘違いなのだけれど、耳をくすぐる感覚の悦びと、自分に少しでも希望が持てる瞬間を追い求め、日夜、ディーヴァたちの歌に耳を傾けている。

 最近、そんな「癒し」の極めつけとも言えるアルバムが出た。イギリスのソプラノ歌手、グレース・デイヴィッドソンが歌う、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの作品を集めたアルバム「単旋聖歌集」(Signum)だ。


 中世の女流作曲家にして、神秘家、医学者としても名を残した才女、ビンゲンが書いた作品を、タイトル通り、デイヴィッドソンは全曲アカペラで歌っている。ビンゲンの作品の多くは単旋律で書かれているが、例えば、ビンゲンの音楽を世に広く知らしめたセクエンツィアのように、声と器楽のアンサンブルで演奏・録音されるケースが主流だ。まさに「楽譜通り」、単旋律を一人の歌手が無伴奏で歌うというのは、少なくとも録音ではかなり珍しいのではないだろうか。

 デイヴィッドソンというと、4年ほど前(もうそんなに前になるのか・・・)に、ダウランドの歌曲集(リュート伴奏)が出て、それがあまりに素晴らしくて卒倒しそうになり、一時期、ヘビーローテーションしていた。

 しかし、その続編を待っているうちにコロナ禍になり、彼女のソロ盤は出なくなってしまった(参加アルバムはいくつか出たけれど)。待ちに待った新盤の登場、しかも、アカペラ・アルバムということで、聴かない訳にはいかない。

 ビンゲンの曲は、音域が広く、時折、かなりのハイトーンが要求され、技術的な難所も随所にある。だが、デイヴィッドソンはそれらを楽々と、のびやかに歌っている(ように聴こえる)。加えて、常に凛とした品格とを失うことがなく、どの音符からも静謐で敬虔な祈りが沁みだしてくるあたり、ふるいつきたくなるくらいに魅力的だ。

 いや、それより何より大切なのは、声、声、声。

 冒頭で述べたような古楽系ソプラノの美質だけでなく、デイヴィッドソン唯一人にしか出せない稀有な美声-伸びがあって、潤いがあって、優しい包容力がある-にメロメロに酔ってしまう。しかも、それだけではなく、その歌いくちには常に折り目正しく、明瞭で、分りもしないラテン語の言葉を追わずにいられない。

 聴く前は、正直、単旋律のアカペラなんて、聴き始めたらウトウトしてしまうのではないかと危惧していたが、まったくの杞憂だった。59分にわたって、どんどん耳は研ぎ澄まされ、心が洗われるような、至福のひとときを過ごした。

 本来、キリスト教に深く根差した音楽の私のこうした感覚的な「消費」方法は、無宗教で、無教養な、いい加減なものに違いない。何しろ、全9曲で讃えられている神や聖母、聖霊は、私にとっては知識でしかなく、日常の暮らしにはまったく関係がない。だが、この音楽を聴いて心を動かされ、浄化され、「今日を良く生きよう」と思えたということは、そんなに間違えた聴き方でもないような気がする。と都合の良い言い訳をして、またデイヴィッドソンの歌を繰り返し聴き、その美声に淫したいと思う。

 古楽系ソプラノ歌手では、ヌリア・リアルと並んで好きなハナ・ブラシコヴァの新盤「茨の中の百合」も出た。

 こちらは、ビーバーやカプスベルガーの曲と、チェコの古楽を組み合わせたので、彼女が参加しているコレギウム・マリアヌムとの共演。

 これもまた悦楽、至福の一枚だ。

 ブラシコヴァは歌だけでなく、バロック・ハープも弾いている。彼女のハープ弾き語りは、音楽的にも、視覚的にも惚れ惚れしてしまうくらいに美しいのだが、ここで音だけでも聴けるのは嬉しい限りだ。チェコの古楽曲はどれも素朴で、抜きんでた個性は感じられないものの、手づくりのあたたかさが感じられる佳曲揃いで、名手たちの歌とアンサンブルがひたすら愉しい。

 ブラシコヴァと言えば、今年の4月にBCJの「マタイ受難曲」に参加するために来日して名唱を聴かせただけでなく、ツイッターで上手な日本語を披露して、私たちファンを喜ばせてくれた。

 その彼女も数年前、ビンゲンのアルバムを出している。

https://tower.jp/item/4747598/

 こちらは彼女が所属するもう一つのグループ、ティブルティナ・アンサンブル名義のアルバムで、通例のように器楽アンサンブルとの共演だった。これはこれでとても良かったのだが、デイヴィッドソンのようにアカペラで歌ってくれたら、どんなに美しい歌が聴けるだろうかと想像してしまう。是非聴いてみたい。

 そう、デイヴィッドソンに戻るが、彼女が歌うビンゲンやダウランドも、是非とも実演で聴いてみたい。日曜の静かな昼下がり、小さくて響きのいい教会でのビンゲン・コンサートとか、カフェやアトリエでのダウランド・リサイタルが開かれたら、どんなにいいだろう!

 実際の彼女は、ちょうどいま(2022年10月)、フランスにて、久石譲指揮のオーケストラとともに、スタジオ・ジブリの映画音楽を特集したコンサートに出演しているらしい。彼女は、マックス・リヒターを始めとするポスト・クラシック系作曲家からの信望の厚い人なので、久石の目に留まったのも当然の成り行きだろうか。彼女が日本語で歌うのかは知らないが、こちらもちょっと気になっている。例えば、井上あずみが歌った「おかあさん」をデイヴィッドソンが歌ったら、最初の2秒で泣く自信はある。


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