猶予


おじいちゃんは何かでずっと入院している。
何かが何かは詳しくは知らない。確か転んで骨折したとかだったはず。薄情な孫だ。

昨今の病院の新型コロナウイルス感染対策はなかなか思い切ったもので、外部の人間を決して中に入れてくれない。実家にいるおばあちゃんや父母も、入院してから一度も面会できていないらしい。気丈に振る舞ってはいるが、辛いはずだ。
そんなおじいちゃんが1月7日、新型コロナウィルスに感染した。驚きというか、憤りというか、「仕方ない」という一言では決して溜飲を下げられない複雑な感想が、思わず口をついて出そうになった。
今日(1月16日)、「あと2,3日かもしれない」という連絡が来た。唐突すぎ。

あと2,3日!!!うそ〜と言っている暇もない。おじいちゃんのために、孫の自分は何ができるだろうと考えた。後悔だけはしたくない。何をしてほしいだろう?想像してみる。

自分があと2,3日で死んでしまうかもしれないという時、どんな気持ちになるんだろうか。俺も昨年8月にコロナに感染し苦しんだが、当然意識はあったし回復するものだと知っていたから、信じて療養に徹することができた。
おじいちゃんにはそれがない。死ぬかもしれない、と思いながら高熱に体力を削られていく。背中が痛んでも自分では起き上がることもできない。

そんなおじいちゃんは、孫である俺の心配事が「メルカリで買った喪服のサイズが自分に合うか」だって知ったら、どう思うんだろう。
「会社の規定てどんな感じやっけ」「土日と引っ付けたら大阪で遊んで帰れるかもな」そんなふうに、おじいちゃんが死ぬことを前提に思考し、行動してしまっている孫を見てどう思うんだろう。

おじいちゃんが死ぬと決めつけて、その後を想像してしまっている自分がいる。それが自分でも許せない。かといってどういう感情を抱いていいのかもわからない。あと2,3日の間にできることがあるかもしれないし、ないかもしれない。あるとして何が正解なのか、その正解はおじいちゃんにとってなのか俺にとってなのか。
後悔だけはしたくない」だとか言って、そもそもその「後悔したくない」って感情自体がエゴな気がする。なんで死ぬことは受け入れてんの?死んだあとに初めて「有無」が判別できる「後悔」を、行動の基準にしちゃってるわけ??じいちゃん全然諦めてないかもしれないじゃん。じいちゃんにとっては1つきりの「生」、しがみついてたいかもしれないじゃん。なんで殺してんだ。「牛さんのためにも美味しく食べてあげましょう」みたいなエゴ思想。牛さんは殺されたくないし食べられたくもないに決まってんだろ!っていう。何の話?

あ〜〜!正直に言っちゃお!!死生とか自他とか苦楽とか全部、無くなれ〜!!!俺の目の前に現れないでくれ〜!!!!なんか生きてきて大人になっちゃったけど、全然受け止めきれませ〜〜ん!!!!!!!!子供みたいな大人ですません

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