【死生観】「老い」や「死」を受け入れる方法
今回の結論は、
「老い」や「死」は避けられない
私たちは常に「病気」である
「100%な健康」は存在しない
常に「笑う」ことで心が満たされる
となります。
これだけでは納得できないという方は、ここから先をお読みください。
今回の教養は下記の書籍を参考に、「老い」や「死」を受け入れる方法を解説していきます。
著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏はテーラワーダ仏教(上座仏教)長老であり、著書80冊以上の著述家でもあります。スリランカ出身で13歳のときに出家し、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教伝道とヴィパッサナー瞑想の指導に従事しています.
老い・病気・死は避けられない
私たちが最も不安に感じているものは、下記の3つではないでしょうか?
老いること
病気になること
死ぬこと
実際、「老けたくはないし、病気で苦しみたくもないし、死ぬなんて考えたくもない」という人がほとんどではないでしょうか。
私も「健康」が何より好きで、健康に関することは何でも試したいし、睡眠・食事・運動を徹底的に追求して、究極の健康体になりたいと常日頃思っています。
しかし、この世に生を受けた以上、「老い」「病気」「死」から逃れることはできません。
仏教における「死」とは
仏教では、「死」を下記の2つに分けています。
物体の終わりとしての「死」
瞬間瞬間に起こる「死」
1つ目の「死」は、いわゆる人間や動物の「死」であり、私たちが「死」と聞いてイメージするものです。
2つ目の「死」は、瞬間瞬間に起こる「死」です。
「死」が瞬間瞬間に起こる、と言われてもイメージが湧かない方もいるかと思いますので、詳しく解説していきます。
瞬間瞬間に起こる「死」とは
人間の身体は細胞でできており、そして細胞ももちろん生きているため「細胞のリニューアル」である新陳代謝によって細胞が入れかわります。
各臓器・器官は
腸管の上皮細胞は2~4日
皮膚は4週間
血液は4ヶ月
骨は5ヶ月
という周期で入れかわるため、1人の人間の細胞はおよそ4年ですべて入れ替わります。つまり、細胞のみで考えた場合、人は4年で「別人」になってしまうのです。
つまり、瞬間瞬間に起こる「死」とは、こうした目に見えないミクロのレベルにおける「死」を意味しています。
心における連続の「死」
さらに抽象的な意味でいうと、私たちの心のなかでは常にさまざまな「思考」が展開されていますよね。
5分前、10分前、1時間前に考えていたことを思いだせますか? おそらく難しいのではないでしょうか。それくらい、私たちの心のなかには常に次から次へとさまざまな「思い」や「思考」がうかんでは消えています。
つまり、「思い」や「思考」は生まれては死んでいる、とも言いかえられるでしょう。
仏教ではこのようなことに対して「死があるから生きている。いきることは死の連続である」といいます。
「死」の連続によって、あらゆるものは変わり続けているのです。
この世は常に変化している
この世はすべてが、あらゆるものが常に変化しています。このことを仏教用語で「無常」といいます。
この世は常に一瞬一瞬で変化し続けていて、これは人間にはどうすることもできない自然の法則なのです。
また、「老い」もまた数ある変化の1つであり、私たちにはどうすることもできません。
しかし、世の中には老いることに抵抗する人がいます。
どのような需要でもそこに需要があれば供給もあるのが資本主義社会ですね。実際、「アンチエイジング」や「いつまでも若々しく!」といった枕詞とともに、毎日のようにさまざまなヘルスケアグッズや健康食品、健康法などが売り出されています。
私も健康が大好きなのでこういった言葉や商法に踊らされることはありますが、「ずっと若々しくいたい」「老いたくない」というのは妄想です。
老いの不安を解消する方法
「そんなこと言っても、年老いていくのはイヤだ。
老けたくないし衰えたくない」
という方もいるでしょう。そのような方にピッタリの、老いの不安を解消する方法を紹介します。
それは、「老いたくない」という気持ちを手放すことです。
そう簡単に手放すことはできない、と思いますか? そのような方は私たちを構成する「細胞」について考えれば、「老いたくない」という気持ちを手放しやすくなります。
人間の命は最初は1つの細胞でした。その細胞が細胞分裂を何度も繰り返して、心臓や皮膚、筋肉、骨などになり、最終的には60兆個の細胞の塊として私たちが生きています。
「老い」がなければ私たちは即死する
では、もし「老い」が止まったとしたらどうなるでしょうか?
「老い」とは、「時間の経過による細胞の誕生と死」であり、これが止まると人は成長もしなければ死ぬこともなくなるのです。
ただ、細胞もモノと同じように使えば劣化していき、いつかは使えなくなって死んでいきます。このとき、「老い」がなければ新たな細胞は生まれません。
したがって、もし「老い」が止まったらその瞬間から、その人は「死」に向かっていくことになるのです。
つまり「老いたくない」と考えることは、「今すぐに死にたい」と考えることと同じなのです。
自然法則に悩むことは無意味
老いることは、自然法則のひとつです。
地球が太陽の周囲をグルグル回ったり、重力には引っ張られたりするのと同じです。事実以上でも事実以下でもない、ただの事実なので、その事実に悩むほうがおかしいといえます。
生きることは、老いることです。
もし、生まれたての赤ちゃんや幼稚園児が「老けたくないわぁ~」と悩んでいたら、不気味ですよね。
赤ちゃんも幼稚園児も日々、老いています。ただ、それを「成長」と捉えるか「老い」と捉えるか、その違いでしかありません。
「100%な健康」は存在しない
私たちは、スマナサーラ氏の下記の言葉を心に刻まなければなりません。「健康のためなら死ねる」ほどの健康オタクの私は特に、刻んでおきます。
仏教における「病気」の定義は、私たちが普段用いているものとは異なります。私たちが普段から使用する「病気」という言葉から、一般的にイメージするのは風邪やがん、感染症など病名がついているものではないでしょうか?
しかし、仏教における「病気」の定義は、「メンテナンスをしないと死んでしまう」という状態です。
私たちはつねに「病気」である
私たちは、呼吸を止めると苦しくなりますよね。この状態が続けばいずれは死ぬます。
排泄を何日も何週間も我慢し続けた場合も、いずれは死にます。
だからこそ、私たちは死なないために常に呼吸をし続け、定期的に排泄をして、必要に応じて食事をしているのです。
したがって、仏教では呼吸をすることも、排泄をすることも、空腹を感じることも、すべて病気ということになります。
言い換えるなら私たちは365日、24時間つねに身体のメンテナンスをしているのです。
心臓から血液が全身に送り出されることも、胃のなかで食べ物が消化されることも、汗をかいて体温を調整するのも、すべてはメンテナンスです。
ここでもう一度、仏教における病気の定義を思い出してみましょう。「メンテナンスをしないと死んでしまう、という状態」が仏教における病気の定義です。
つまり、仏教の観点からいうと、私たちの身体はつねに病気ということになります。
人の体は「機械」と同じ
私たちの身体は「機械」と同じであり、「モノ」です。
冷蔵庫や洗濯機などの家電を買った際の「保証期間」というものがありますよね。保証期間中であれば調子が悪くなっても、メンテナンスを受けて動かし続けることができます。
人間の身体も同じであり「保証期間」があります。保証期間中であれば、呼吸や食事、排泄などの絶え間ないメンテナンスを行うことで、身体が動き続けます。
心は「エネルギー」
機械は動かすための燃料などの「エネルギー」が必要です。
では、身体が「機械」であれば、「エネルギー」は何でしょうか?
それは、心であり、命です。
心や命は身体のような「機械」ではないため、本来であれば使っても働きが悪くなるものではありません。
しかし、現代においては多くの人が心の調子が悪いことで悩んでいます。
その理由の1つは、下記の教養で解説したように、昔のことやこれからのことに思い悩み、妄想に振り回されていることが挙げられます。
身体に執着せず、心を育てる
したがって、私たちは「老いたくない」「ガンになりたくない」と身体にばかり執着するのではなく、心を育てることに意識を向けなければなりません。
「心を育てる」とは、心の汚れを取り除くことです。昨日より今日、今日より明日、マシな人間になれるように自分を変えていくこと、と言い換えられるでしょう。
とはいえ、
「自分はもう重い病気だし、身体も弱いし、そんなこと言ってられないよ」
という方もいるかもしれません。
しかし、仏教の創始者である釈迦は、そのような人に下記の言葉を残しています。
「正しい生き方というのは、身体が壊れても心が壊れないように、身体は病気になっても心が病気にならないようにすることです」
心が弱まれば、身体も弱まる
心はエネルギーであるため、心が弱まればエネルギーも弱まります。エネルギーが弱まれば、身体の病気の回復はさらに難しくなるでしょう。
では、どうすれば心を強くし、エネルギーを取り戻せるのでしょうか?
それは、心を明るくすることです。
そしてその方法は、よく笑うこと。
これだけで、心は明るくなり、エネルギーを満たすことができます。
さらに心に余裕がある場合は、慈悲の心を持ちましょう。
慈悲の心とは、簡単にいうと「相手の立場に立って考えること」です。
仏教における「死」とは
人の死は誰にとっても悲しいものですが、私たちは自分とかかわりのない人の死はあまり気にかけません。むしろ嫌いな人の場合は「死んで当然だ」と考えるかもしれませんね。
しかし、自分や自分の家族、親しい人の死は耐え難い苦しみとなります。
なぜ、知らない人の死は気にかけないのに、親しい人の死は苦しいのでしょうか?
それは、自分や近しい人に対して、私たちが執着しすぎているためです。つまり下記の教養でも解説したように、執着やこだわりが死の恐怖を生み出しているのです。
「死の恐怖」に対してできること
では、このような「死の恐怖」に対して、私たちはどのように接するべきなのでしょうか?
私たちが「死」に対してできる唯一のことは、人が「死ぬ存在」であることを受け入れて、そのうえで「死ぬまでの短い時間をどう使っていくか」を考えることです。
親しい人が亡くなった場合の対応
では、親しい人が亡くなった場合、どのようにするべきなのでしょうか。
まず、自分のなかに湧き上がる悲しみをジーっと味わいます。心に悲しむための時間を数時間、あげましょう。
多くの人は、「泣いてはダメだ」「悲しみたくない」と感情を抑えようとしますが、このような無理をする必要はありません。
この状態で2~3時間経ったあとに、下記のように自分に言い聞かせましょう。
すると、少しずつ悲しみが減っていきます。
そこで、下記のように考えて気持ちをすぐに入れ替えます。
いま、自分がするべきことはなにか
いまの自分の義務は何なのか
そしてすぐに行動に移すのです。悲しいときは黙っていてはいけません。
身体を動かしましょう。こうすることで冷静になれます。
何があっても、笑っていよう
前述したように、私たちの身体という「機械」は、心という「エネルギー」を使って動いています。
このエネルギーを充電するには、「笑う」ことです。
毎日、ただ笑うだけで、エネルギーが充電されていきます。
笑っていると、不思議なことに悩みが無くなり、怒ることもありません。
笑いのある生活をおくる方法は、ただありとあらゆることを「笑い」に変換することです。イライラしたり怒りそうになっても、10~20秒グッと我慢して、怒りの感情やその状況をユーモアをもって捉えてみましょう。
だからこそ、下記の言葉を常に意識しておいてください。
「何があっても、笑っていよう」
「仏教の教養」では、下記のような教養がよく見られています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?