【私の作品はフォークロアにインスパイアされたものでありフォークロアではない】-マフムード・レダ
マフムード・レダ(1930-2020)はエジプトを代表するダンス一座【レダ・トループ】の創設者であり、プリンシパルダンサーであり、振り付け家。
【レダ・トループ】は、エジプト民族の文化に基づいたパフォーマンスをシアトリカル形式で行った一番始めのダンス一座。
世界各国をツアーし、ニューヨークのカーネギーホールでもパフォーマンスを行いました。
現在では、【レダ・トループ】のオリジナル作品にインスパイアされたダンス・トループがエジプト内に沢山存在します。
マフムード・レダは、競泳選手としてカイロの選手権で優勝し、その後、飛び込み競技の選手に転向するが背中を痛め、体操選手となります。
15歳か16歳の時、兄であるアリの影響で社交ダンスに興味を持ち、体操選手を続けながらコーチの勧めもあり、ダンスをエクササイズとして取り入れ始めます。
1952年にヘルシンキで開催されたオリンピックに体操選手としてエジプト代表として参加。
オリンピック後、更にダンスに興味を持ち、アルゼンチン・フォークロアダンス・アンサンブルがカイロにツアーに来た際、ダンサーと話す機会がありその流れでメンバーとなり、ヨーロッパツアーに参加。
1955年パリでのツアー中、「なぜ、エジプト人である私がアルゼンチンのフォークロアダンス・アンサンブルで踊っていて、エジプトに特化したフォークロアダンスを踊っていないのか?」と疑問が湧き、アンサンブルを辞めエジプトへ帰国します。
帰国後すぐにトループを立ち上げる資金がなく、会計士(カイロ大学政治経済学部卒業)として働きます。
そして、遂に1959年に【レダ・トループ】を立ち上げるのです。
自身を男性プリンシパルダンサーに、ファリーダ・ファミー(マフムードの兄弟であるアリの妻)を女性プリンシパルダンサーに、体操選手時代の同僚を男性ダンサーに迎え、男性7人女性7人で【レダ・トループ】を始めます。
ダンサーとして参加した数名は、ダンス経験が全くなかったそうです。
1959年に【レダ・トループ】はカイロにてデビューを果たします。
レダがエジプトの様々な地域のダンスをリサーチする前であったので、この時の演目は、レダが経験上知っているオールド・カイロの人々の生活や性格を取り上げたものでした。
レダが【レダ・トループ】を立ち上げた時点では、エジプトの様々な地域の文化について収集された知識がなかったので、レダが自ら収集する必要がありました。
レダは、フィールドリサーチを通して様々なフォークロアダンスの動きを習得していきました。
そして、フォークロアダンサーの動きはシンプル過ぎた為、ステージ様に様々なステップやターンを加えカテゴライズし、他のダンサーに教える為に方法論を確立していきました。
【私の作品はフォークロアにインスパイアされたものでありフォークロアではない】-マフムード・レダ-
このようにして、レダは【レダ・トループ】の土台となるダンステクニークを編み出していきました。
また、バレエの教え方を学び、バレエの方法論をエジプトダンスのボキャブラリーに取り入れました。
そして、あくまでも【全ての動きをエジプトという枠の中で行った】-マフムード・レダ- のです。
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