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PASSION 海がないだけ、沖縄そのもの コロニア・オキナワ

 サンファン移住地から、再び乗り合いタクシーを乗り継ぎ、コロニア・オキナワにたどりつく。
 日本ボリビア協会(日ボ協会)は二階建ての立派な建物で、入口には移民の家族を象った像があった。父と母は帽子をかぶって片手に斧。子どもである男の子は左手にお弁当、右手に教科書。女の子は赤ん坊を背負いながらバケツを手に、という像だ。建物を見上げればシーサーが飾られていた。

 サンファンの伴井さんが日ボ協会の事務局に私のことを伝えておいてくれていたため、スムーズに入ることができた。スタッフに宿泊したいことを告げると二階にある客室を案内してくれる。ベッドが4つ、シャワーもトイレもついていた。ノートなどに名前を記すことすらなく、部屋の鍵、協会入口の鍵、協会前の門の鍵を渡された。
 ペルー滞在中に、コロニア・オキナワにある日本語学校に勤める先生のブログを偶然発見し、私は連絡を取り合っていた。この日の訪問も伝えてあった。
「名嘉先生という方にお会いしたいのですが…」とスタッフに伝える。
「学校へ来てくださいとのことでしたよ」
 名嘉先生の勤務先であるオキナワ第一日ボ学校へ向かった。

 コロニア・オキナワは、サンファン移住地より一年早い1954年、うるま移住地に入植者が入ったことでその歴史は始まった。
 敗戦後、沖縄は廃墟と化し、米軍基地に土地が収容され、住む場所も働く場所もない人たちであふれていた。ペルーからボリビアに再移住したウチナーンチュが“故郷を救済しよう”と呼びかけたことがオキナワ移住地を拓くきっかけになったという。
 琉球政府の当時の「南米ボリビア農業移民募集要項」には「沖縄の現段階における土地、人口、食糧、経済振興、社会などの諸問題を解決するには、海外移民を送り出すことによって同国の資源開発に寄与すると共に彼我両国の経済的繁栄と文化的向上に資し、もって世界平和の確立に貢献する」とあるそうだ。
 琉球政府計画移民は1954年から64年までに、合計584家族、3385人が送りだされたという。
第一次移民の募集には、400人の募集に対し10倍の4000人が応募した。いかに沖縄が苦しい状態であったかが想像できる。
 入植直後、うるま移住地では熱病が発生してしまう。病名がはっきりせず“うるま病”と名づけられたこの病により15名の死者が出た。米国政府やボリビアは、医師団を派遣するなどしたが効果は望めず、やがて移転はやむなしとされた。その後、パロメティア移住地へ移転したが、土地の獲得が困難なことなどから、56年7月から10月にかけて現在のコロニア・オキナワに再移転する。ようやく定住の地を見出したことで、沖縄から次々と後続移住者が到着するようになった。
 1957年9月に第二移住地が、59年11月に第三移住地が拓かれている。サンファン移住地と同じく農業で繁栄してきた。政府から、模倣的農村として「小麦の首都」との称号を受けている。日系人だけでなく、国内各地からコロニア・オキナワに移り住んだボリビア人は1万2000人と報告されている。
1988年、ボリビア政府からコロニア・オキナワが正式な行政区として認められ、公式地図にもOKINAWAの文字が記されている。
世界地図には「OKINAWA」が二ヶ所存在するのである。

 オキナワ日ボ第一学校の白い門をくぐる。「事務室」「職員室」の文字が懐かしい。職員室のドアをノックする。
 中に入ると校長先生、埼玉出身という島村先生、沖縄から派遣されている若い女性は美鈴先生。がっちりした体格の男性が連絡を取り合っていた名嘉先生だ。
 「初めまして」
 握手を交わして挨拶したのち、職員室でコーヒーやお菓子をごちそうになりながら談話をすれば、すっかり放課後気分である。
 校庭では子どもたちがサッカーをして遊んでいた。
 「こんにちは」
 ここにもまた、挨拶が自らできる子どもたちがいる。
 先生たちの仕事が終わってから、日系人の家族が経営する「熱田食堂」に連れて行ってもらった。那覇にある守札門に似せた店構えが面白い。
 餃子定食、野菜定食、魚定食、冷たい麦茶を注文し、シェアしながら食べる。冷たい麦茶が暑さを和らげてくれた。サンタクルスに来てから確実に体重が増えていることだろう。美味しい日本食を満腹になるまで食べる日が続いていた。


 20時すぎ、美鈴先生も参加しているというエイサーの練習を見学させてもらった。おばちゃんたち3人と指導者の若い男性で練習だ。
 「私ら日本語しゃべれんからサー」
 Tシャツ、半パンに首にはタオルを巻きながら、ウチナー口で笑うおばちゃん。練習は本気だった。美鈴先生もおばちゃんたちも、エイサー太鼓を持ちながら、ピリッとした動きが素敵であった。

 翌日は、製粉会社を経営する二世の比嘉さんが移住地を案内してくれることになっていた。
「よろしくお願いします」
 比嘉さんの四駆に乗り、移住地を走り出す。
 オキナワ移住地は第一から第三地区までありかなり広い。車でなければ行き来することはできない。
 干しレンガが積まれた素朴な家、木陰にベンチを置いてのんびりする人、馬に乗る人。穏やかな農村風景が続いていく。
 未舗装で凹凸の激しいガタガタ道を、比嘉さんの運転技術で抜けていった。道の両脇には延々と畑が広がり、コロニア・オキナワの土地の豊かさをうかがうことができた。
 第三地区では商店に寄るが、店主のおじいちゃんの言葉は難しいウチナー口で、何を言っているのか理解することができなかった。
 


 名嘉先生や美鈴先生の仕事は午後からである。オキナワ日ボ第一学校では、午前中がスペイン語、午後が日本語の授業となっているそうだ。
14時から三線の授業があるそうで、見学させてもらおうと学校に行ったのだが、三線の先生が体調不良のため欠席だという残念な知らせが入った。
 「三線を持って、音楽室に行きなさい」
 名嘉先生が生徒たちにそう声をかけたため、疑問に思った。授業は行われないのでは…
 「三線の授業はないですけど、せっかくなので生徒たちの演奏を聞いてください」
 子どもたちは「てぃんさぐぬ花」「安里屋ゆんた」などの沖縄民謡を聞かせてくれた。三線の乾いた音色とかわいらしい歌声が音楽室に響いた。
 他の教室も見学させてもらったあと、「オキナワボリビア歴史資料館」に行ってみた。
 サンファン移住地同様に、移住当初の生活道具や日本から持ってきた品々が展示されている。三線や芭蕉布も飾られていた。
 原生林を拓いたときにいたという大蛇・アナコンダの皮がそのまま展示されていて生々しい。歴史は年数が経つほどに、直接その歴史を語れる人が少なくなり、風化していく。一世が減り、その歴史を伝承するにはどうしたらいいのか。ひとつの手立てとして、こうした移民史料館があるのだ。

ゆいまーる、という原動力

 翌日の午後、コロニア・オキナワ会長である宮城和男さん(60)が話をしてくれた。
 宮城さんは1949年に沖縄本島の読谷村で生まれた。オキナワの土地に魅力を感じて単身で、79年にコロニア・オキナワに移住した。

 コロニア・オキナワが発展したのは郷土愛があったからだよ。それだけではなく、オキナワに腰を落ち着けて、ここを豊かにして、ボリビアも豊かにしようという心もあった。自分たちだけが生きるのではない。「共生」の精神を持っていた。
それでも開拓時代は相当の苦労があった。開拓時代は見渡す限りが原生林。集団移住でオキナワに来たものの、来てみたら何もない。日本も戦後は貧しかったが、ジャングルではなかった。日本のほうがマシだった。オキナワに来た第一次移民は10倍もの競争を勝ち抜いてきた。村から選抜され、親戚から選抜され、友人代表として選抜されてボリビアに来たのである。不満があっても口には出せない。簡単には帰れない。
移住者のなかには脱走した人もいたけれど、それを責めることはできなかった。移住地に残り、耐えた人たちの精神はすごい。“すごい”としか表現できない。
集団移民、開拓時代の厳しさを味わった人は今でも200人以上が生きている。そんな大先輩は言うよ。「よくぞここまで来たもんだ」って。当時からすれば、いまの豊かなコロニアの姿は信じられない。今日どうやって生きていこうか、1時間後、2時間後のことで精一杯だった。 
「よくぞここまで」という言葉に熱い思いが表現されているんじゃないか。

オキナワが発展した原動力は「ゆいまーる」だと宮城さんは言う。ゆいまーるとは相互扶助を意味する沖縄言葉だ。

 開拓時代から比べれば、ゆいまーるに沿ったつながりが薄れてしまったのは仕方ない。それよりも、今できること、今できるウチナーンチュの生き方で、オキナワがさらに発展していったらいいと思う。
 日ボ学校で三線や沖縄相撲といった伝統文化を授業に取り入れたのもそのひとつ。兄弟愛、島愛、字愛、部落愛…沖縄には血縁と地縁を深く想う心がある。運動会で自分たちの住んでいる区が出場すれば、一生懸命応援する。練習も叱咤激励してね。勝ち負けではなく、地域のために頑張るんだよ。
もうひとつ、ウチナーンチュである前に、日本人であって移民であることを忘れてはいけないと思う。ボリビア人と共存共栄する。ボリビアで稼いだものを日本にすべて持っていくのではなく、文化にしろ、経済にしろ、お互いをよくしていきたい。
 オキナワでは、排日運動が起きなかった。ボリビア人の住民が増えているが、これからも共存していけるようにしないといけない。そんななかでウチナー口は忘れていくとしても、日本人としてのDNAは残っていくでしょう。日系人はどこに示しても良い資質を持っている。人間としてやるべきことをやって、人間形成をしていって、それをボリビア人にも広めていけたら文化的融合になる。

 宮城会長は、まっすぐな目でそう語ってくれた。

 コロニア・オキナワで3泊し、私はサンタクルスに戻ることにした。進学などでオキナワを離れた青年たちは金曜日の夜にモンテーロやサンタクルスといった町から戻ってきて、週末をオキナワで過ごしているのだという。夜は体育館でバレーボールをしたり、晩酌をしたり、笑い声が朝方まで響く。日曜日の昼過ぎに、サンタクルスへ車で戻るというのが恒例らしい。
私もこの流れに同乗させてもらえることになった。
 青年の車では最新の日本のヒット曲が流れていた。ボリビアの音楽よりも日本の音楽のほうが好きだという。青年のひとりは日本に行ったことがある。
「沖縄そばは美味しかったサー。驚いたのはコンビニね。あんな便利な物、ボリビアに持って帰りたいと思ったよ。自動販売機もな。ボリビアにはない。
 エスカレーターね、待つ人と急ぐ人で左右分かれて乗るのにも驚いた。電車は人がいっぱいで、座席は空いていない。だけど座れるスペースがあったからジャマにならないように気を使って座ったの。そしたら変な目で見られたよ。
 日本は狭いな。ごちゃごちゃしすぎている。
 スペイン語と日本語?サンタクルスに行ったらスペイン語になるし、オキナワに戻ったら日本語になる。小さいときから言葉は習っていたから頭で考えなくても自然に両方話せるよ」

 コロニア・オキナワには独特の濃い空気が流れ、濃密な世界がある。この空気感は沖縄にいるときと全く同じだ。海がないだけ。
 間違いなく、コロニア・オキナワは「もうひとつのオキナワ」だった。
エイサーや三線の練習が常に行われ、8月には豊年祭も行われる。沖縄文化は失われることなくこの地で引き継がれていく。心配はいらない。頑固なほどの「ウチナーぐくる(心)」をみんなが持っているのだから。

 “いざ行かん 我等の家は五大州 誠一つの金武世界石”

 沖縄県民の海外移住先駆者・沖縄本島金武町出身の当山久三は、100年前にこの歌を詠んだ。五大陸が自分たちのフィールドだと言えてしまう懐の大きさにあっぱれだ。ウチナーンチュのパワーは底知れない。


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