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願いからの解放


この話もよく書いてきた内容ですが、
・願いが叶うこと
・願いを忘れること

って同じなんですよね。

例えば
『苺が食べたい!』
と、思っていて、実際に苺を食べたら、もう
『苺が食べたい!』
という思いは消えますよね。

『願いが叶わなくて"苦しい"!』
と感じる要因の大半を締めているのは
『苺が食べたい!』
と、いう思いが頭から消えてくれない煩わしさだったりする訳です。

瞬間的に
『苺が食べたい!』
と思っただけで、その後すぐにその願いを忘れてしまったのであれば、
『願いが叶わなくて苦しい!』
とも感じません。

『苺が食べたい!』
『苺が食べたい!』
『苺が食べたい!』
何度も頭に過るのが鬱陶しくて、苦しくなってしまっている、という側面があるだけです。



なのですが、多くの人は
『願いが"叶わないから"苦しいんだ!』
『願いが叶わないと幸せにはなれないんだ!』
『願いさえ叶えば幸せになれる!』
などと、強く思い込んでいます。だから、願望実現系や引き寄せ系の話に興味を抱く訳ですね。

これ、裏を返せば

願いが叶うor叶わない

という世界観に自分の幸不幸が委ねられてしまっている、結果に支配されてしまっている状態とも言えるのです。

極論、願いなんて持たないことが最も楽に生きられるとも言えるのです。



仏教なんかでは
「煩悩を捨てましょう。」
などの言葉もあります。この教えから
『煩悩を持ってはいけないんだ!』
『煩悩を持たないようにしなくてはいけない!』
『煩悩を持ってしまう自分はダメだ…。』
などとまた、

煩悩を持つor持たない

の世界観に自分の幸不幸を委ねられてしまっている人も多いのです。結果に支配されに行ってしまっています。

煩悩を捨てるには、煩悩について考えないことが最も有効なのに、
『どうしたら煩悩を捨てられるんだ?』
『どうしたら煩悩から解放される?』
なんて、深みにハマってしまいやすいのも人間の悲しい性かもしれませんね。

全てを忘れて頭を切り替えれば良いだけなのに、切り替えずにフォーカスを繰り返して打ち払おうとするから、苦しくなる訳です。



こういう話をすると、
『じゃあ願いを持たずに生きろってこと?』
『願いが湧いてしまったら無理矢理忘れろってこと?』
の、ような疑問を抱く人も多いのかもしれません。

そういう話じゃないんですよね。

願いや願望、希望が湧くのは当たり前。自然なことなんです。

煩悩が何とかかんとか…っていう話をうっすらと知っているせいで
『願いや願望を持つことは悪いことなんだ!』
の、ように思い込んでしまっているだけで、
[願いや願望を持つこと]
自体に善も悪もないんです。

波が寄せては返すことに善も悪も無いのと同じように、願いが湧いては消え、湧いては消えるのは当たり前な自然現象だと捉えるだけで、かなり【願い】というものへの執着を手放せるはずです。

この感覚は是非ともイメージして掴んでみて欲しいですね。



願いや願望が自分の中に生まれたときに苦しくなってしまうタイプの中には
『願いや願望なんて、叶うはずのないものだから!』
と、強固に植え付けられてしまっている人も少なくないでしょう。子供の頃から
「あれが欲しい!」
「これをしたい!」
など、欲求を伝えても
「ダメ!」
「こっちにしておきなさい!」
などと、周りの大人に強く自分の願望を否定されて育ったようなタイプは特にそうではないでしょうか。私はこのタイプです。

このタイプこそ、まずは冒頭の
・願いが叶うこと
・願いを忘れること

両者が同意義であることを腑に落とすことから始めると、心の中の深い傷に抵触せずに【願い】というものへの印象をフラットにできると思うので、試してみると良いと思います。



さて、
『【願い】というものを叶えようが忘れようが同じものなんだ。』
と、フラットに感じられ、【願い】というものへのハードルが下がったら、

『な~んだ、じゃあ、願いなんて持っていても持っていなくても、自分が幸せかどうかには関係ないことだよね!』

と、簡単に解るのではないでしょうか。

そうなんです。自分の幸福にも、不幸にも、【願い】というエッセンスは関係ないのです。必要ないのです。

願いや願望が湧いては消えるのは自然なことだけど、それが則ち自分の幸福を左右するものではない。

この感覚に繋がると、
『願いが叶うとか叶わないとか、そんなみみっちぃ世界の中に囚われてる必要ないよね。願望実現とか、どうでも良いや。』
という気分になるはずです。この感覚を実感する頃には

『願いを叶える選択をしても良いし、忘れる選択をすることも自由だよね!』

と、自分が運命を選択できることを実感できるはずです。



もう一度少し戻って、
・願いが叶うこと
・願いを忘れること
が同じ…と、いうことは、
『今、この瞬間にパッと思い出せない過去の願望は、[全て叶った]と、同意義じゃん!』
と、いうことも実感できるのではないでしょうか。

と、いうことは
『なーんだ、願いって全て叶うのが当たり前なんだな。』
と、より一層
願いが叶うor叶わない
という結果に何の意味もなく、そこに執着することが不思議な気分にはなりませんか?



もしかしたら学校とか地域毎に違うかもしれないし、私が育った世代と別の世代はまた違ったかもしれませんが、
「夢を持ちましょう!」
「目標を立てましょう!」
「将来の夢は何ですか?」
なんて、
[ゴールを先に想定する生き方]
を強いられる教えられ方ばかりの中で、私は生きてきました。

社会に出ても大体そうです。

これも会社毎に違いますが、目標を立てさせられたり、その目標を達成するまでの採点シートを定期的に付けさせられる会社もありました。←ここまでではなくとも、大概【売上目標】や【予算】など、【未来のゴール】を目指してそこに進むよう促される社会の中でずっと生きてきた訳です。

でも、私や、他にも【目覚め】なんてものを体験した人たちはこれから

[結果なんて放っておいて、『今、この瞬間に何を選択するのか』を重視した生き方]

へと、まるで真逆のような意識で生きていくことを選択する人が増えていく訳です。

そうなったときに、
『願いとは、叶わないものだから、叶ったときに幸福である。』
とか
『願いを想定して、そこに行き着くことが幸せである。』
などの前提って全部邪魔でしかなくなるんですよね。これからの時代にはもう要らない概念なんですよ。



一応、捕捉しておくと、
[【ゴール】ありきで、そこに向かって工夫する]
と、いう世界観を体験することは、それはそれとして貴重な体験でもあるのです。だから、これまでの行動全てが完全に無駄だったという話ではありません。

ただ、これからはその感覚を捨てて、より楽しい選択をしていくことを目指していく魂が増えていくので、迷わずに【進む方向】を選択できる後押しをする話を書いているだけです。

私たちは
【願い】
【願望】
【夢】
【目標】
なんかに支配されるから苦しくなっているのだと、気付かなければいけない人は大勢いるんですよ。

そんなものを重視する必要なんて一切ありません。

むしろ、
『願いを持たなければいけない。』
『願いを叶えなければいけない。』
といった概念こそが私たちを苦しめているという事実に気付いた方が早く楽になれますよ。


⚠️ここから、攻撃的な表現を色々書くと思うので、そういうエネルギーを受けたくない人は先はお控えくださいね。⚠️




ネットなんかで、【平成】のことを
「失われた30年」
って言い方するのをちらほら見たことがあるのですが、この言い方、平成産まれの私としては何かイラッとするんですよね。

私から見たら、【昭和】の方がよっぽど
「狂った60年」
じゃねーか、と。

残念ながら、まだ、昭和産まれの比率の方が高い…のかな?分かんないけど、昭和の当たり前を当たり前として生きてきた世代には分からないんだろうということも分かるから言わないだけで
『昭和の価値観って結構狂ってるよな。』
と、感じることが多いんですよね。で、その変な価値観を
[無理矢理、頑として変えようとしなかった]
のは昭和世代の人間の方なのに、平成を発展させないようにしぶとく粘ったのは昭和世代の人間の方なのに、
「いつの間にか消えてた。」
みたいな言い方してさぁ笑

変わらなかったのはお前らで、そのツケがきてんだよ!

って話だと私は思うんですけどね。伝わらないんでしょうね。



こんな言い方を今更したって無意味なのですが、最近やたらと
『いやいや、価値観をもっと早い段階で変革できてれば、この時代・この時期にここまで苦しむ人間の数増やさなくて済んだじゃん。』
と、思う事柄が多いんですよ。

本文の、[願いを叶えるとか叶えない]とかも良い例です。

確かに
【"明確な"夢・目標・願望を持っていて、そこに向かって一心不乱に取り組めるから幸福で、大成を成せる人】
がいるのも事実ですが、そういう生き方や行動を全ての子供に強いるべきではないんですよね。

何で昭和の世代って答えを1つに終結させて、そこに全員を当てはめようと躍起になるのか、私には理解ができません。

別に夢や目標を持たないで出たとこ勝負のまま人生を歩む方法を選ぶ人間も認めてあげたら良いだけなのに、それをさせないように強固に縛ろうとしたのは昭和世代じゃねーかよ、と、思う部分が私にはあるんですよね。

で、本文の内容に限らずだけど、
「願望を実現させてこそ、幸せになれるんです!」
「願望を実現させるから、幸せになるんです!」
みたいに、マスターの立場の人の個人的な価値観、世界観の中に信者を囲おうとする人も多いなって印象が強くて、
「やめときなよ。」
としか言い様がなくなっちゃうんだよね笑

でも、そうやって仲間意識を重要視してる価値観が強い人たちにとっては、そうやって共通の世界観で安心し合ってる方が幸せなんだろうから、それはそれで好きにやってて良いと思うんですよ。

問題は、そういうのを見て
『その世界観に、自分も混ざらなきゃいけないのかなぁ??!』
なんて焦ってしまう人ですね。←こういう人が可哀想、と私は思うんですよ。

いや、もう、誰かと共有できたり、一緒じゃなくて良いから!自分の好きに生きて良いよ!

と、私は思ってます。

でも、
『"みんなで"一緒に~…』
って囲おうとする人たちのエネルギーに"1人"で対抗しようとすると難しかったりするじゃないですか。

「"みんな"と"一緒"じゃなくて良いからね!!!」

って、1億人位のエネルギーをこのブログに乗せておきたい位です。孤高の戦士たちにエールを送っております。



夢・目標みたいに【ゴール】が明確に見えてない状態で前に進むのって、確かに不安なんですよ。恐怖なんですよ。その恐怖心を感じなくて済むために
「【ゴール】を決めましょうね~。」
っていう訴えなら、聞く必要なんてないと、私は断言します。

恐怖心に脅かされた上での選択は全て誤りなんですよ。

未知の世界に飛び込んで冒険する楽しさを奪う言葉なんて、聞かなくて良いんです。

【願い】なんてピンを打たなくても冒険はできるし、すれば良い。

「願いを持ちましょう!」
という話すら聞く必要もありません。



私たちは、【願い】なんてものを重要視してそれらに振り回される必要なんて微塵もないのです。

【願い】【願望】【夢】【目標】これらと、【自分が感じる幸福感】をあるがままに見極めてみてください。それができたとききっと、人生は楽なものへと変わるはずです。


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