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私が尊敬する人たちは、一言では言い表せない。

少なくともこの1年間、私は何か肩書きを探していました。

一年前オーストラリアにいましたが、人生で初めてバリスタと名乗れるように。
バリスタの定義、と言われると少し困ってしまいます。コーヒーを提供してその対価として金銭をいただく、そんな感じでしょうか。

そこで初めて肩書きをつけることができたんです。自信をもって。
バリスタのなぐ。バリスタの名倉さん。バリスタを仕事にしている名倉。そう呼ばれるようになってからは、すごく安心感がありました。
あぁ、今自分は「バリスタ」として世間に認められているんだなって。

「会社員」という肩書きを捨てて、バリスタのそれを手に入れた訳です。

でも、心のどこかで「バリスタである自分」と「バリスタと名乗ることが嫌な自分」がいました。その2人がいがみ合っている時、何者なんだろうと考え込み、そうでない時はバリスタらしく振る舞う。
だからその衝突地点に、ヒデさんの言う「何者かであろうとする呪い」に囚われている自分がいたんだなぁ、と他人事。

じゃあ一体私は今、一体何者なんだろう。
そう思うだけでもすごく不安に襲われます。世間は肩書き社会だと一方的に思っていましたし、何より肩書きがあった方が、他人にとっては認知しやすいですし。

だからTwitterの名前の横には、いつも@なんちゃら〜なんて、勝手に肩書きをつけてしまう。少なくともこの1、2年間はそう。
でも、それって自分の可能性を狭めていたなぁ、なんて感じます。


私が今やっていること、やりたいことは、「バリスタ」ではない。だけじゃない。
個人で活躍する焙煎士(インディーズロースター)の輪を広げること、ラジオパーソナリティ、DTM、コーヒーかすをアップサイクルする企業、台湾でのコーヒーツーリズム、地域活性、コミュニティー運営、企画、、、

多分、一言では言い表せません。いや、肩書き一言では言い表せられたくない。
「肩書き」だけで判断されるのであれば、それはおそらく「その肩書きの人」を求めているのであって、「私」ではないんじゃないかな。

私が尊敬しているのは、その肩書きに、ではなくて、その「人」に、です。
ふと、その尊敬している人を見ると、何やっているか分からない。
だから、私は彼ら彼女らを尊敬しているのかもしれません。

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