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祝詞(ノリト) イイ・ヤシロ・チ⑯

マジナイを、咒いとも呪いとも書くと知ったのは、加門七海さんのこの本に図書館で出会ったから。

https://www.kadokawa.co.jp/product/321911000246/

咒いは奥が深いのだった。加門さんの著書は、これまでもわたくしの持つ疑問に対する答えや、イヤシロチ巡りにあたっての注意すべきことをたくさん示してくださった。それにもまして、この本は、学ぶことが多かった。

言霊とはよく聞くけれど、まさかこのような事柄までが言葉のマジカルな効果に関わるモノだったとは、と吃かされる事例が次々に開示されていく。読み進めるうちに、いつ、誰が、こんなコトを始めたのか?と疑問が広がっていく本である。

そして、此処日本で暮らすとは、年々諸所に積み重ねられた魔術の言葉に囲まれて生きることであり、言葉によって、知らぬうちにその力に支配されていることが少なくないと理解した。

ただ、マジナイはマジカル、魔術の範疇である。素人が不用意に深みにはまって手を出すのは危険な気がしてならない。わたくしのアラームが何か不穏なモノを感知して鳴り始めている。よくわからない「マジナイ」からは、サッサと踵を返して撤退すべきと。

イヤシロチ巡りの旅では、熱心に祈る人、願う人を多く見かける。わたくしも昇殿参拝でお祓いを受けることもある。その時、神職の方が神前で祝詞を奏上される。この形は、取次方式なので、安全が担保されて安心だ。

そうしてみると、改めて祝う詞をノリトと読むのもやっぱり不思議、と思う。コトバンクで祝詞を調べる。

https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9D%E8%A9%9E-112528

ナルホド、神職が神と人の仔の間で、神の代理人として宣言する(ノル)、のノリト、呪うからくるノリトの読みなのか、と理解した。漢字の意味は、「祝い」なので、祝福や寿詞(ヨゴト)からきているようである。祝詞の内容は、神様を敬い、褒めちぎり、此方の願いを聞き届けていただくように作られている。偏の口を心(ネ)に差し替えているのは、祝詞の威力の発動には心の在り方が最も重要なのだという意味だろうか。

イヤシロチに赴く時、わたくし自身は、通常、唱え言葉を唱えることが多い。祓い清め守り幸せを給うことを願う。そして、祈りは、子どもの頃から、そのままの自分の言葉で「○○するために頑張るのでどうぞ見守りください」と未来の自分を宣言するスタイルである。

此処によくまとまった記事が見つかった。↓

https://wanosuteki.jp/archives/28535

唱え言葉と美意識がつながっているとは、驚きながらも、納得。心を清く保てば、どんな難局にあっても自分を厭うことなく勇気をもって挑んでゆけるのではないか。自信や安心を培う言葉を何度も唱え、聞くことで、だんだんと自分のなかの生きる力や安定感が補強されると推測する。唱え言葉はプラスのよい自己暗示となるのだろう。

自分のことは自分で何とかする。自分ではどうしようもない時にこそ、心を込めて祈る。自分以外のために祈る。神なる存在の力によって、人の仔が幸せに暮らす現実を作るための特別な言葉、それが祝詞ではないか。

つまり、特別にスケールの大きい、例えば平和祈願や災厄回避についてこそ、いよいよ祝詞の出番なのかもしれない、とわたくしは考える。

わたくしはたまに、龍神の社では龍神祝詞、神社で特に拝詞が授けられているなら、その祝詞を、他の参拝者のご迷惑にならないよう注意しながら奏上する。場合によっては拝殿ではない目立たないところで。どちらで奏上するにせよ、ひっそりと唱えさせていただくようにしている。なぜなら、儀礼やしきたりも知らない、神の御力を恃むだけの、非力な人の仔の一人でしかないから。

さらに、思わぬ危険に近づくことのないように「気軽なおまじない扱い」を決してしない。何故なら、マジナイは、加門さんの著書を読むと、「取り扱い注意」と判断されるから。

https://kotobank.jp/word/%E3%81%BE%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84-1595129

もちろん、無邪気に可愛らしく、助けになるマジナイもある。転んで膝小僧を擦りむいた時、お腹が痛くなった時、側にいる誰かに「イタイノイタイノ飛んでいけ!」と助けられたことは、誰にでもあるだろう。糸や鎖が絡まって困った時に「しゃしゃむしゃら むしゃらのなかの しゃしゃむしゃら むしゃらなければ しゃしゃむしゃらなし」とおばあちゃんの知恵のような、ホッコリ心を落ち着かせるもののように。

ただ、「現実を変える力を持つ言葉」に、唱える人の仔の想念が載ると、それが起動スイッチとして機能する可能性には留意すべきであろう。マジナイはノロイの一種であり、それを声に出す者は自重する必要がある。特に念の強いタイプの人は殊更に。

わたくしたちは、言葉の力が網の目のように張り巡らされている国に暮らしている。できうる限り、より良く明るい言葉の力が発揮されるよう自分の言葉を選びたい。

滅多なことを言うな」という言葉もそのとおり。多くを滅するような言葉の呪いをうっかりとかけないように、気を付ける智慧をはたらかせること。そうすれば、よい言霊が満ち、予祝(よしゅく)される環境のなかで共に安らかに生きていくことができる。

長いスパンで見れば、必要なことが必要な時に起こり、何事もためになるようになっている。しかし、人間は目の前の出来事だけで禍福を判断し、一喜一憂しがちだ。安定した心持でいるためにも、自分の身の内に在る無数とも言える祖先の遺伝子が、ひと時も休まずにサポートしてくれている事実を忘れず、そして感謝すること。なぜなら生きていること自体が奇跡だから。

その奇跡的な存在の自分が、口にする言葉の一音一音に不思議な力が宿ることを自覚して、大切に扱うこと。「そんなこと?」と言われようが、基本のあいさつや身近な人との会話の言葉に良き心を込めることが、幸せの一歩であるのも事実。秘密でもない、皆が知っている当たり前のことが、実は最強の護りの言葉なのだ。日々の忙しさや疲れのせいで、祝が心(ネ)の代わりに口の付く呪にすり替わっていないか、と時折自分を見直すことを意識したい。

本当のことを唄っている、明るくシンプルな童謡に耳を傾けながら、わたくしは自戒する。特に年末に向けてラストスパートをかけようとする、この時期こそ、である。

https://www.youtube.com/watch?v=lguPx35ifoU

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