鬼さんこちら イイ・ヤシロ・チ㉑

鬼は怖いものなのだろうか?節分が近づくと、いつもそんな疑問が頭をよぎる、わたくし。

鬼女、鬼嫁、鬼ババアなどと、女性には古典にも現代にも普通に?使われる冠言葉であったりする。何かに怒って頭から角を生やすのは女性、とお約束のようなのも、だいたいが納得いかないのである。わたくしの記憶するところでは、現実に鬼のように怒鳴ったり暴れたりする姿を見せたのは、男性の方が多かった。なのに、鬼男、鬼旦那、鬼ジジイという言葉はついぞ聞いたことがない。

あ、例外として鬼コーチというのは、青春漫画やドラマにいたっけ。しかもそれはまあまあ肯定的に表現されて。(今の基準だとパワハラの勘違い指導者なのだが。巨人の星とかわたくしはアニメも苦手で、子どもがご飯を食べさせてもらえず、恐ろしいギプスとかつけられて、悪夢のようにしごかれる。それも家庭で、親からという設定がたいそう恐怖心を募らせたものである。あれは完全に悪い鬼おやじであった)

話は変わって、鬼のビジュアルで悪い奴と決めつけるのも、やはりどうにも受け入れがたい。わたくしは6歳ぐらいの頃、「泣いた赤鬼」のお話を聞いて、なんてひどい話だと幼いながらも憤慨していた。何もしていないのに、外見で嫌われてしまうなんて、と。そして友達の赤鬼の願いをかなえるために、損な役回りを引き受け、そのうえ仲良しの赤鬼と会えなくなってしまう青鬼に同情しすぎて、この展開はすごくおかしいと、また地団太を踏むような心持ちになった。

とはいえ、毎年節分になると、いそいそと煎り豆を年の数食べて、嬉々として豆まきをしていたのは、やはりお子様だったわたくし。我が家では母が、豆だけではなくキャンディなども撒くのを許してくれていて、昭和の平凡な家庭のにぎやかで楽しいイベントだった。自宅で豆まきをしなくなったのはいつごろからだろう。

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ところで、すっかりと大人になって、イヤシロチ巡りを通じて、追儺(ついな)という儀式を知ってから、わたくしは、再び「鬼」について考えるようになったのである。↓の記事を読むと、邪気を払う方相師が鬼扱いになってしまった経緯が理解できる。

https://shikitari.net/shikitari/event/annual-event/16139/

ところで、わたくしが巡ったイヤシロチのなかにも、鬼にまつわる社がいくつか在った。その中で、追儺の鬼が人々に福をもたらすという場面に出会ったのは、神戸の長田神社。寒風吹く節分の午後、わたくしは松明を手に登場した鬼が力強く災厄を焼き払う姿に遭遇した。それまでのわたくしが長年抱いていた、豆を投げつけられて逃げていく鬼のイメージが180度変身した体験だった。

華やかな赤い拝殿が節分の特別なしめ飾りで浄められ、其処に潔斎した神職と氏子の方々が列をなして入場する。様々な式次第を経ていくうち、頭上の太陽がカッと強い光を放ったかと思うと、なぜだか遠雷が響いて小さな霰がパラパラと振り落ちてきた。それはほんの一瞬のことだったけれど、とても神がかった感じがした。そのうちに社の右手から勢いよく燃え上がる松明を手にした鬼が出現すると、参列者の歓待と緊張の感情が最高潮に達した。

わたくしは火の粉を振りまく力強い鬼の舞を間近に見た。松明の灰が鬼の回転に伴って空中に振りまかれるにつれ、火の暖気も拡がっていくようだった。しばらくはほら貝と太鼓の音に合わせた鬼のエネルギッシュな動きに見とれていたが、はっと我に返って寒さと立ちんぼうが辛くなる前に辞去した。心身がふわりと軽くなった感覚を味わいながら、授与品の餅花をお土産に大満足で帰宅の途に就いたのだった。実際の神事は、闇が訪れる時間まで続く。

https://www.youtube.com/watch?v=O6Apg471lpQ
https://nagatajinja.jp/

今年は、疫病の影響で残念ながら中止とのことだが、この古来からの儀式が末永く続き、人々の厄災をはらうことを心から願う。

そして、もう一つのイヤシロチの鬼と言えば、岡山の吉備津神社の温羅(うら)を思い出す。吉備津神社の縁起には、桃太郎に成敗された鬼が恨みを残していて皆を悩ませるという話もある。

https://www.kibitujinja.com/about/

百済から来た蛮族とされている一方、一説には、吉備国を統治していた先住民の首領だったとされる温羅。そうであるならば、征伐されて反論できないうえの鬼扱いというのも、理不尽で物哀しい。そして、打ち取られた首が唸るので、特別の女性が祀り、火を絶やさず慰霊していることも意味深。わたくしも数度入ったことのある御竈殿は、立ち上る煙の匂いと黒く燻された室内の異様な空気感が強く印象に残っている。さすが晴れの国岡山のイヤシロチと納得するほど明るい境内の中で、対照的に特異な場所だった。

其処で行われる鳴釜神事なる託宣の体験談の記事を見つけた。↓

https://intojapanwaraku.com/culture/127639/

わたくしもガイドの方から聞いたが、結構な的中率だとのこと。温羅の占い、とは駄洒落っぽいけれど、的中すると聞けば聞くほど、なんだか恐ろしく、小心なわたくしはチャレンジできない。(汗)体験記事は大変参考になり、ありがたい。

古代の先住民の長が伐ち取られ、その祟りを怖れた征服者がその係累者に慰霊を担わせ、子孫への見守りが託宣の形をとっているのか?温羅の正体ミステリーはとても興味深いけれど、それは別の機会のお楽しみにし、また節分の鬼に戻ろう。

牛の角と虎のパンツで丑寅の鬼門に引っ掛けた、今時の鬼のスタイル。乱暴で人々を苦しめる存在扱いだけれど、もとは鬼道(きどう)というのは、死者の霊を扱う術のことだ。「卑弥呼は鬼道をよくする」という歴史書の記述もあったとか。つまり、鬼は鬼籍に入った人(亡くなった人)のこと。長田神社の鬼は、子孫の幸せな生活を支えるため年に一度現れて災厄を火の粉で焼きはらってくれる優しいご先祖様なのかもしれない

時代が流れるにつれ、楽しく面白いものを求める庶民への商業的な宣伝や政治的な歴史の塗り替えなどが、伝言ゲーム的に変質していった末に在るのが、目の前に在る現在の「鬼」だったりするか?と、わたくしの無責任な妄想の連想が着地した。

子孫を見守る愛を持った存在を、目つぶし(煎り豆)やトゲ(柊)、悪臭(鰯)などで撃退せずに、「鬼さん此方」と招き入れ、慰めいとうのはどうだろうか?疫病の長い災厄に皆が悩ましい今冬は、鬼とのお付き合いを再考するのに好適なタイミングなのかもしれない。思いのほか、それがあなたに幸福をもたらすのではないだろうか?

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最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。




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